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2005年11月30日

大河ドラマ改革

B0002T25FW砦なき者
野沢尚
東北新社 2004-09-24

by G-Tools

テレビドラマを最近あまり見なくなった。最後に見たのは、「トリック」シリーズぐらいか。以前は、野沢尚脚本のドラマが好きでよく見てたのだけど、彼のドラマはもう見られなくなっちゃったからね……。遺作となった「砦なき者」はやっぱりどこか怖い感じがした。死という感触がそこにたしかにあるという感覚。彼のような心の底からゾクゾクするミステリードラマを書ける人は、彼亡き後は見あたらない。

そんなわけで、ほとんど最近のドラマは見てないのだが、ただ大河ドラマだけは昔からの習慣で見続けてしまっている。”美しき流れ”ゆえか、それとも惰性なのかは知らねど、なんとなくガキのころから見続けている。記憶をたどれば、たしか「おんな太閤記」ぐらいから見ていると思う。

今年の「義経」も、金粉をまき散らす演出に眉をひそめたり、せっかく石原さとみががんばって舞ってるのにあんな大量の紅葉では台無しだなどとケチをつけながら楽しんでいる。僕はリアルな演出が好きなので、変に幻想的な雰囲気にしてみたりするのは好きくないのだ。あと、合戦のときに、登場する兵員が少ないように感じるのだけど。義経が平家の大軍を蹴散らすというシーンでも、全然大軍じゃなくて、こりゃ陣を破られても仕方ないわなという数の兵士で守っている。おそらくこのシーンは、NHKが受信料未納による予算減少という難敵と戦っていることも表現しているのだろう。

ところで、大河ドラマは大きな問題を抱えていると思う。それは、舞台となる時代がどうしても戦国時代に偏りがちになるということだ。その理由は簡単で、戦国時代以外の時代、たとえば去年の幕末のような時代を取りあげると、視聴率が稼げないからだ。NHKは特に最近、視聴率重視の傾向があるように感じるが、そうなると必然的に万人受けしやすい、戦国時代ばかりになってしまう。だが、僕のような歴史マニアにとっては織田豊臣徳川はもう飽き飽きなんだよ。じゃあ、どうすればよいか。

ここは思い切って、もう日本の歴史じゃなくていいんじゃないか。中国の三国時代とか古代ローマとか、トロイア戦争とかフランス革命やナポレオン戦争とか。背景はブルースクリーン合成で。よくハリウッドが日本を描くとどこか違和感があるのだけど、こちらが外国を描くとどうなるのか。興味深い。

でもまあ、CGを使うにしろ、そんな金ないか。

投稿者 オッズ : 21:49 | コメント (0) | トラックバック | テレビ

メイ検のすすめ

言うまでもなく、人生は有限であり、今という瞬間は二度とありません。そんな貴重な人生の時間をブログ書きに費やすというのはいかがなものか。と、さきほど二十秒ほど自問自答してみましたが、かといってそれに代わるものすごーく有益な行動、温暖化を防止する、貧富の格差を解消する、日本の借金を解消する、地震のときにマンションが崩落するのを体を張ってくいとめるためにマンションの前で待ちかまえている、というのもちょっとしんどいなと思うので、今日もブログを書きます。一番いいのは、明日にそなえて早く寝ることでしょうね。

二番目にいいのは、キャリアアップのための資格を取得するための勉強をすることでしょうか。ただ、世の中にはいろいろな資格がありますから、本当に自分にとって役立つ資格を選ばなくてはなりません。少なからぬ時間とエネルギーを費やすのですから、それに見合う資格をとりたいものです。資格業界に利用されないようにしないと。

そこで、将来性が高いと考えられる資格をいくつか紹介します。まず、メイド検定、略称メイ検(ラッシーは無関係)はご存じの方も多いでしょう。メイド喫茶が一般に普及するにしたがって、競争が激化し、メイドにもよりクオリティが要求されるようになりました。そのため、高度な専門技能を習得したメイドを育成するためにメイド検定が登場しました。この検定が生まれた背景には、メイド喫茶を風俗営業とは一線を画したものにしておきたいという業界側の事情もあったようです。なお、最近は巫女さんの技能を認定する、MIKOEICに押され気味らしいですね。

男性の方には、ホストとしての能力を認定するホスト検定がおすすめです。シビアな世界を生き抜くには、欠かせぬ資格といえましょう。また、ハードゲイ認定試験は今が旬の資格です。腰におぼえのある方は、一度挑戦されてはいかがでしょうか。

数ある資格から、本当に価値のある資格を選んでアドバイスする資格カウンセラーにも注目が集まっています。いずれにしろ、たしかな目で嘘っぱちの資格にだまされないようにしたいものです。

投稿者 オッズ : 21:43 | コメント (0) | トラックバック | コラム

2005年11月28日

身捨つるほどの祖国はありや

ネガティブなことはなるべく書かないようこころがけていますがね。

今日逮捕された西村という人なんですが、前から大嫌いでしたよ。「国のために命を投げ出してもかまわない日本人を生み出す。」なんて言ってるような人はね、信用できません。他にもやけに威勢のいいことを言ってる人を時々見かけますけど、そういうことは日本で日本人に言うのではなく、中国へいって中国の人に言ったらどうですかね。ねえ、太陽の季節。

愛国心という言葉があります。だけど、そのニュアンスは人によってかなり異なります。なぜなら、それが抽象的なものだからです。

家族を愛する、恋人を愛する、友人を愛する、というのは具体的にイメージできます。それらはこちらが愛をもって接すれば、相手もいくらかは応えてくれるでしょう。まったく拒絶されることもあるか(泣)。とはいえ、愛をそそぐ対象としてはもっともふさわしい、適切な大きさといえましょう。

故郷や自分が住んでいる地域への愛はどうでしょう。もしかしたら、具体的にイメージしにくい人もいるかもしれません。近代になってから消失したのがこの地域への愛で、職場と家の往復をくり返すことでなりたっている現代生活では、この部分が穴が空いたような状態になっています。愛をそそぐ対象としては、悪くない大きさだと思います。

では、組織に対しての愛はどうでしょう。愛社精神とか愛校精神とかいうものですね。組織の大きさにもよりますが、こうなると、愛をそそぐ対象範囲はぐっと広がります。対象が巨大化したために、愛着を感じたとしても、その対象のなにを愛しているかが曖昧になります。

さらに広げて、国家に対しての愛はどうでしょうか。日本を愛するというのは、日本のなにを愛しているということでしょうか。政府か、歴史か、文化か、日本人か。日本には現在一億三千万近くの日本人がいますが、これだけの人口を抱えた国家というものを人は本当に愛することができるのでしょうか。人が愛をそそぐ対象としては、限界をはるかに超えた規模なのではないでしょうか。

愛をそそぐという行為は大変なエネルギーを要する行為です。愛をそそぐ対象が大きくなればなるほど、その要求されるエネルギーは巨大になっていきます。国家を愛するというエネルギーを本当の意味でそなえた人間がいるとは思えません。そのため、愛国心は抽象的で漠然としたものであるか、もしくは当人の感情や妄想によって補完されて存在するにすぎません。

左寄りの人や在日の人もまるっと含めた上で日本という国は成り立っているのですから、愛国を唱える人には是非そのすべてを愛してほしいですね。

とはいえ、国家にどれだけ尽くしたとしても、国家がそれに応えてくれるかどうかはわかりません。レスポンスがない相手との愛というのは、やはりどこか妄想的だと思いますよ。平時であれば国家といい関係を築くこともできるのでしょうが、有事となれば国家を生かすために、国民は切り捨てられるでしょう。

実際のところ、侵攻やテロより、一番遭遇する可能性が高いのは自然災害です。災害のことを考えると、国家などという得体のしれないものを愛するより、近所の人と仲良くしておいた方がいいです。

投稿者 オッズ : 23:33 | コメント (0) | トラックバック | コラム

2005年11月27日

冬が来る前に

寒さが身に応える季節になった。夏はあれほど憎らしかったパソコンの排気熱であるが、寒くなると貴重な熱源となる。音さえなければ、ストレージやサーバー用としてあと2、3台は置いておきたいところだ。

だが、外が寒いからといって家の中ばかりにいては体に悪い。散歩がてら外出すると、人だかりがしているのを見つけた。何かなと思って近づいてみると、村上ファンドの村上さんがジャスコの店頭で投資を募っているところだった。

僕も村上ファンドへの投資については以前から関心があったので、声をかけてみると、今なら最低10億円から投資できるという。たった10億円で、含み益がたっぷりしみこんだ不動産が手に入り、甘い汁が吸えるなら安いものだと思ったが、預金通帳を確認してみると、ほんのちょっとだけ10億には足らないようなので、心ならずもお断りしなければならなかった。村上さんは何とか僕に投資してほしかったようだが、「村上クン、悪いが僕のオイルマネーも無尽蔵というわけではないんだ。あらゆる運用は慎重におこなうようにとかつてソロスに言われたことがある。また今度よろしく頼むよ。ははは、そう落胆するなって」と彼の肩をたたき、その場を離れた。隣にホームセンターがあったので、オイルマネーの大半を使って灯油を購入した。

バブルの頃、証券関係者は小口投資家のことを、おそらく感謝の気持ちからだろう、”ゴミ”と呼んでいたそうである。あれから十数年、空前の株ブームがやってきたとテレビ東京の番組で言っていた。昔、痛い目にあった人は、その経験を生かして新規プレイヤーを餌食にできるだろうか。

投稿者 オッズ : 18:46 | コメント (0) | トラックバック | コラム

2005年11月23日

シリーズ映画の法則(まとめ)

シリーズ映画の法則は、シリーズ映画の何作目が面白いのかを考える企画です。今回は、これまでの結果をふまえ、その結論を導き出します。

以下は、これまで取りあげた12シリーズの全評価から、合計及び平均値を算出したものです。エクセルを非生産的に使用しています。

評価表

これから分かることは、二作目の意外な健闘と、三作目のダウンぶりです。当然のことながら、一作目の高評価がなければ、二作目以降の作品は製作されません。たとえ監督が二作目以降の構想を持っていたとしても。(一気に撮影された「ロード・オブ・ザ・リング」などは除く。)そのため、シリーズ映画の一作目は安定的な評価を得ています。二作目は、一作目の成功の余韻が残っており、一作目ではできなかった試みを盛り込むことにより、緊張感を維持することができます。しかし、三作目になると、ネタ切れ、マンネリ化の倦怠感が作品全体を包むようになり、緊張感は大きく下降し、一作目以来のファン離れという現象が加速します。この”三作目の壁”とも呼ぶべきハードルは思いの外高く、これを突破するのは容易ではありません。

”三作目の壁”を乗り越えるにはどうしたらよいのでしょう。三作目の方向性としては、二つしかありません。ひとつは、店じまいと言いますか、物語を畳んでいくという方向。つまり二作目の流れを引き継ぎつつ、最後まで走り抜けるというもの。シリーズ映画としての正攻法であり、序破急という言葉がありますが、急すなわち全編クライマックス状態で観客を圧倒することが求められます。しかし、一作目二作目でふくらんでしまった観客の期待に応えるものをつくるのは至難の業でしょう。もうひとつは、それまでの作品とまったくちがう作品として生まれ変わるという方向。新生というとかっこいいですが、それならそもそもシリーズである必然性がなくなる可能性もあり、ファンの期待を裏切ることが良い方向に働くかどうかは微妙なところです。ギャラの問題などから、三作目はキャスト・スタッフの交代も多く、これによってそのシリーズが持っていた雰囲気を失わせてしまうことも少なくありません。とはいえ、たとえ二作目の流れを引き継ぐという方向性であっても、観客の期待に応えつつ、どこかで裏切るところがないと面白味は生まれず、何らかの新奇性は不可欠です。

ただ、上のデータからは、三作目が面白くなる可能性は低く、観客を十分に納得させることができていないということがいえます。ですから結論としては、シリーズ映画は一作目と二作目を見れば十分な場合が多いと考えられます。

ま、すべて僕の主観以外の何者でもないのですが。

投稿者 オッズ : 11:58 | コメント (0) | トラックバック | 映画

2005年11月22日

食品の期限はあてになるのか

■「賞味期限切れ」でも、捨てなくてOK (WIRED NEWS)

 そろそろ古い保存食品の整理をしなくては――今度そう思ったときは、気にせず先延ばしにしてかまわない。

 メーカーが設定した賞味期限を過ぎたあとも、多くの食品は何年、あるいは何十年と食べられる状態にあるからだ。

賞味期限が設定されている食品は劣化が緩やかなので、賞味期限が過ぎても安全性にはあまり問題がないとされる。そもそも賞味期限は美味しく食べられる期間とされているが、メーカーはわりと厳しめに決めているようなので、期限後に急にまずくなるというわけでもない。

消費期限の方はどうだろうか。味を保証する賞味期限に対し、品質の安全を保証する消費期限が過ぎた食品の摂取にはそれ相応のリスクがともなうとされている。消費期限の切れた食品のアウト・セーフを誰かがジャッジしてくれるといいのだが。

賞味期限、消費期限の設定は業界各社ごとの基準があるようだが、部外者にはどの程度厳密なものなのかは判然としない。個人の体質にも関係するが、知人の話では納豆は期限切れでもわりとOK、乳製品はある程度覚悟せいよというところらしい。

だが、僕自身は正直こんな話に興味はない。なぜなら期限の切れた食品など、さっさと捨ててしまうからだ。毎晩、贅沢な美食に囲まれて、飽きるほど食べ、満腹になったら鳥の羽でのどを刺激して嘔吐し、さらに食べている。そんな古代ローマの美食家のような僕にとっては、期限の切れた食品にまで手をつけねばならんとは、下流社会の人間の哀れを思わずにはいられない。

ところで、消費期限の切れた生菓子をいつも送ってくる親戚があるのだが、どういうつもりか。僕がこんなものを食べるとでも思っているのだろうか。片腹痛い。あ、あれ。本当に痛くなってきた。ううう。やっぱりやめとけばよかった……。

投稿者 オッズ : 20:28 | コメント (0) | トラックバック | コラム

Qちゃんに拍手

■尚子、鮮やかな復活V!/マラソン (nikkansports.com)

遅いですが。良かったねえ。最近は、ピチピチした10代の活躍より、ちょっと調子がふるわないだけで口さがない連中からすぐに”引退”と書かれてしまうような年くった選手の活躍にこころ打たれるんだよねえ。比喩でもなんでもない、本当の地獄のトレーニングに耐えて、見事結果を残したというのはやっぱりすごい。

投稿者 オッズ : 20:25 | コメント (0) | トラックバック | スポーツ

2005年11月20日

ブログのタイトルを変えてみた

ブログのタイトルを変えた。

だが、やることは変わらない。諸行は無常なれど、楽器は同じ音色を奏でつづける。聴く人とそのこころが変化するだけ。

それにしても、ブログはわりと簡単にタイトル変更ができてしまうので、ついつい一新させたいリセットしたいという気分で変えてしまいがちだ。だが、多くの人にサイトを覚えていてもらいたいなら、頻繁な変更は避けるべきだ。占い師の助言で付けた芸名が、成功を約束するわけではない。「新~」などという新しい看板に付け替えたところで、国を取り巻く状況が劇的に変化するわけではない。

だから、僕はここに誓おう。今回の変更により、このブログは100年安心なものになったと。もうタイトルを変えたりはしない。たぶんしないと思う。しないんじゃないかな。ま、ちょっと覚悟はしておけ。

投稿者 オッズ : 16:01 | コメント (0) | トラックバック | 雑談

2005年11月18日

インターネットの醍醐味

考えてみれば、インターネット以前の情報源の多くは、大手メディアから発信されるものが中心だった。それまでもクチコミという草の根的な情報交換はあったし、それは現在でも大きな力をもっているが、インターネットによって個人が発信する情報量の割合が爆発的に増大したのは間違いない。大手メディアという組織から発信される情報と、個人から発信される情報。それらの比率が、ここ数年で劇的に変化した。

個人から発信される情報といえば聞こえはいいが、要するに素人さんがつくったものが大半でしょ、そんなの見る価値あるの? というのが、一昔前までの共通認識だった。実際、テレビでは多くの場合、個人の素人芸は嘲笑の対象として消費されるにすぎない。素人いじりを得意とするプロ芸人を含め、ひとりひとりがテレビという巨大な機構の駒として、それぞれの役割を果たすのみだ。

だが、インターネットというメディアは、個人が発信するものの方が面白い。企業という組織のサイトであっても、興味を惹くのは、顔の見える(写真が掲載されているということではない)担当者のブログというきわめて個人的な特性をもつものである。大まかにいえば、既存メディアが組織力の成果であるのに対し、インターネットは個人が生みだすものやその個人そのものに焦点をあてる。

たとえば、楽天やライブドアなどはインターネットというより、むしろテレビ的な企業なのではないか。いや、それをいえばそもそも企業というものが組織の結集である以上、すべてテレビ的ということになってしまうか。だが、企業であるにもかかわらず、ジョブスという個性に大きな注目が当たるアップルはインターネット的な雰囲気を漂わせる。あいつは次にどんな面白いことをやるだろう、そんな視点からその言動に注目が集まることがインターネット的なのである。それに比べ、三木谷氏や堀江氏に対する世間の注目は、芸能ワイドショー的であって、テレビ的である。企業買収は今でこそ関心が集まるが、数年も経てばごく普通のことになるだろう。彼らに今ひとつ革新性が感じられないのは、そこにクリエイトという要素が乏しいからかもしれない。畢竟、彼らへの関心はごく浅いレベルにとどまる。

今後、クオリティの高いコンテンツを持った組織がネットに参入するようになれば、個人のコンテンツは蹴散らされてしまうだろうか。有名人のサイトにアクセスが集中し、無名人のサイトなど知り合い以外は誰も見なくなるだろうか。その可能性はある。だが、無名であっても才能のある人は多く、無名人ならではの味わいというのも存在する。大きな世界では伝えられない、小さな物語は無数にある。そんな小さな物語の方に、僕は興味がある。

投稿者 オッズ : 23:39 | コメント (0) | トラックバック | インターネット

2005年11月17日

手書きの効用

通販でモノを買ったとき、店によってはメッセージカードを同封している時がある。簡単なメッセージであっても、手書きで書かれているとけっこう好印象で、またこの店で買おうかなという気分になる。そういうことをするのは、個性的な専門店に多い。

ちょっとしたことなんだけど、ただ納品書が入っているだけより、よっぽど印象に残る。自分が売っているモノへの誇りと愛着が感じられるから。

手で書くということを惜しんではいかんなと。脳力の源泉でもあるし。

投稿者 オッズ : 23:05 | コメント (0) | トラックバック | 雑談

2005年11月10日

5インチフロッピーディスクを確保

5インチ2HD

久しぶりに、家の片隅に置かれていたNECのPC-9821 As2/U8Wを動かしてみる。お、まだまだ元気に動く、動く。PC98用でしかリリースされなかったゲームソフトとか(ゲームかよ)、PC98時代のソフト資産がけっこうあって、PC98本体がないと動かせないので、本体もソフトも捨てられない。エミュレータという手段もあるが、コピープロテクトを解除しないと動かないソフトばかりなんだよなあ。

PC98を動かしていると、5インチフロッピーディスクが少ないことに気づいたのでネットで探してみると、あることはあるんだけど、やっぱり扱っている店は少なくなったなあという印象。最後まで生産していたのはたしかマクセルだったと思うけど、生産終了してすでに数年たっているからなくなるわけだわね。

あらためて5インチはでかいと感じた。8インチというのは体験したことがないのだけど、5インチでも十分でかい。これでもテープよりはかなり使えると昔は感じたものだがねえ。今となっては、5インチ2HDの容量1.2MBなんて、デジカメ買ったときに付いてくるちゃちなメモリーカードの容量だってその数倍はある。

昔を懐かしむ年寄りのようなエントリーになってるが、別にPC98そのものにそれほど思い入れがあるわけじゃない。むしろPC98の独占状態による弊害は大きかったという思いの方が強い。価格高止まりとかね。あと、独自規格なのでPC98用マウスの中古っていつまであるのかとか不安。

最も必要なのは、ソフトウェアという資産を残し、継承していく図書館的な存在だと思う。膨大な量だろうが、国家的なプロジェクトとしてそういったサーバーを設置することも考えていいんじゃないだろうか。

投稿者 オッズ : 23:19 | コメント (0) | トラックバック | パソコン

2005年11月09日

オートマタの世界

「オートマタの世界 ジ・アンティークオルゴール・デジタルミュージアム」という番組が、メ~テレで金曜深夜(?)に放送されている。けっこう以前から放送されていたと思うが、放送したりしなかったりというスキマ番組という感じ。

オートマタというのは、ヨーロッパのからくり人形のようなもので、オルゴールを内蔵し、ゼンマイによって動く人形です。「オートマタの世界」で取りあげられているオートマタは、京都嵐山オルゴール博物館(音あり)のコレクションで、その博物館のサイトではオートマタが実際に動くムービーを見ることができる。

不思議な色気があるんですよね、オートマタ。

ムットーニ …… からくりつながりで
野坂オートマタ美術館 …… 行ってみたい

投稿者 オッズ : 22:26 | コメント (2) | トラックバック | テレビ

2005年11月08日

生産完了という文字にそそられる性癖

最近、魅力的な携帯情報端末がいろいろ登場してるので、いいなと思ったものを挙げてみます。

各地で話題沸騰なので今さらとりあげるのも気がひけちゃうんですが、やっぱりW-ZERO3は外せないでしょう。長い間、ウィルコム端末を使ってきた身としては、こうした先進的な端末がウィルコムからリリースされることは我が事のようにうれしい。とても楽しみ。かつて、江口洋介はエッジを手にして「終わったな、携帯の時代は」と言い放ったCMがあったが、今から思うとむしろPHSが終わらなくてよかった~という感じ。外出時の通信端末として細々と生きてたおかげで、京ぽん以降、ようやく日の目が向いてきた。

次はPalm。Palm T|Xは新しい要素はあまりないのだけど、そのかわり安定感を感じる端末。微妙な画素数のカメラなんてていらない。だけど、押さえるべきところは押さえているという点で好印象。

とはいえ、W-ZERO3は放っておいても売れるだろうから、わざわざ僕が買わなくてもいいかという気もするんだよね。そんな誰からも注目されるモノよりも、あまり話題にもならず、ひっそりと市場から消えていく不遇なモノにひかれてしまう性癖がある。不憫さがかわいい、誰からも認められていないお前だが、俺だけはお前の良さを知ってるぞみたいな感情。それゆえ、”生産完了”という文字に購買意欲がそそられる。大体、人気がないモノは価格大幅下落でお買い得だったりするし。後から、不人気なのにはちゃんと理由があるんだなということを思い知らされることもあるが。

そんなかわいそうな日陰者。今だったら、PEG-VZ90なんかがそんな感じじゃないか。オークションでしか手に入らなくなってから、わりと高値で取り引きされる予感。

PDAではないけれど、iPodなんかもこれだけ人気になって、音楽プレイヤーといえばiPodみたいな時代に今さら買おうという気持ちにはならんのだよなあ。iPodの欠点は人気がありすぎることだ。かといって、ついRioを選んでしまえばきっと後悔するだろう。

これだけモノがあふれる時代になると、いつでも手に入るモノは別に買わなくてもいいかという気になるが、入手の困難さは購買意欲をいたづらに刺激する。他の人とはちがうものを所有したいという欲望もあるんだろうな。もうただの人気商品では満足できないからだになっているのだろうか。

最後に、実は一番注目してる「Nokia 770」がついにヨーロッパで発売。早く日本で入手できるようになるといいな。

■ノキア、Linuxベースのインターネット端末「Nokia 770」を発売 (CNET Japan)

投稿者 オッズ : 22:11 | コメント (0) | トラックバック | PDA

2005年11月06日

バベルの塔はそこにある

最近の電子書籍関連の記事をいくつか。

まず、検索覇王グーグルから。

■グーグル、書籍検索サービス「Google Print」ベータ版で図書館蔵書などを公開 (CNET Japan)

米グーグルが米国時間11月3日、「Google Print」のベータ版サイトで、提携先の大学や図書館の蔵書を公開した。

図書館の蔵書をデジタル化するグーグルのプロジェクトには著作権の侵害という声も強く、今回公開されたのは著作権が切れた書籍に限られる。

これに対して、ネット通販の帝王アマゾンは新たなサービスで対抗。

■米アマゾン、本をページ単位でばら売りへ (WIRED NEWS)

米アマゾン・コム社は3日(米国時間)、書籍をページ単位、章単位で販売するサービス『アマゾン・ページズ』を発表した。本を買わなくても、必要な部分だけインターネット上で読めるようにする。一方、本を購入後、追加料金を払えば、外出先でもネットで読める『アマゾン・アップグレード』も開始する。

いずれも米国のサービス。グーグルの図書館蔵書をすべてデジタル化するというプロジェクトは、デジタル化の流れからいずれは実行されるだろうと少なからぬ人たちが予想していたものではないだろうか。とてもインパクトのある計画だが、著作権の問題ともろに衝突するもので、そのハードルをどうクリアしていくのか興味深い。

「アマゾン・ページズ」というサービスはどうだろう。音楽はアルバム単位から、曲単位で購入できるようになったが、本は音楽のように何度も繰り返して鑑賞することはあまりない。文学作品などでは何度も読み返すということはあるが、そこまで愛着のある本ならば、当然所有しているだろう。ページ単位で読みたいという需要が予想されるのは専門書だが、自分が手に入れたい情報が掲載されているページにうまく到達できるだろうか。せっかく購入したのに、思ったようなことは書かれていなかったということでは利用する価値がない。とはいえ、最近日本のアマゾンでも始まった「なか見!検索」がうまく機能すれば、便利なサービスになりうる。

それより、雑誌で「アマゾン・ページズ」が使えたらいいのにな。

最近はブログを本にするというサービスも登場し、本をつくるという行為のハードルも下がりつつある。デジタル化が本という媒体に与えた影響は、とてつもなく大きい。

追記:
マイクロソフト社も参戦。
■大英図書館の蔵書、ネットで閲覧、検索可能に (WIRED NEWS)

投稿者 オッズ : 00:50 | コメント (0) | トラックバック | インターネット

2005年11月02日

ベクシンスキーの世界

4845711451ベクシンスキー (A TREVILLE BOOK)
ベクシンスキー
トレヴィル 1997-07

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芸術の秋ですからね。画集でも紐解きましょうか。

僕の好きな画家にベクシンスキーという人がいまして、この人ポーランドの人で、おそがいような、それでいてどこかユーモラスにも感じる、じっと見ているとあやしげ~な気持ちにさせてくれる絵を描きます。今年2月に刺殺体で発見されました。強盗目的の少年に殺害されたようです。

高齢で、ポーランドの人なので、ナチスドイツの占領も体験しています。絵画にもその影響はあるのだろうが、あまりその視点からの鑑賞は、彼の絵の面白さを見逃すことになると思う。

最近、廃刊になっていた日本語版画集が復刊されました。

Zdzislaw Beksinski …… 公式サイト (音が出ますよ)

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高山良策の怪獣造形

怪獣53 ツインテール

GyaOのドキュメンタリーチャンネルで、高山良策の特集をやっている。高山良策はシュールリアリズムの画家だが、円谷プロで怪獣造形の仕事をしていた。初期のウルトラシリーズ、「ウルトラQ」「ウルトラマン」「ウルトラセブン」には印象深い怪獣が多いが、それを手がけたのが彼である。怪獣デザインの成田亨とともに、日本特撮史には欠かせない人物といえる。

僕はウルトラシリーズでの仕事のことしか知らなかったが、第1回の放送では、大魔神も高山の造形だったことが紹介される。たしかに、大魔神の迫力には独特のものがある。

今でもウルトラシリーズはつくられているが、人々の記憶に残るような怪獣は少ない。怪獣のエッセンスは初期三部作(および、初めの方の「帰ってきたウルトラマン」)で、出し尽くされてしまったような感さえある。もちろん、今の作品も懸命にアイデアを突きつめているのだろうが、ストーリーはともかく、怪獣の魅力という点ではかなり苦しい。

高山がシュールリアリズムの素養を身につけていたということもあるのだろうが、怪獣一体一体に、彼が真剣に取り組んでいたひとつの結果がそこにある。本業のシュールリアリズム画家としてより、怪獣造形で名が売れたことに対し、彼自身は複雑だったのかもしれないが、彼が制作した怪獣すべてに彼の作家性は十二分に表現されていると思う。

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