2007年08月03日

御霊神社

なんだかんだ言って選挙は好きなので、今回もだらだらと選挙特番を見てしまった。何に惹きつけられているかはよくわからないが、付けられないままの花の山のとなりで、幹部連中がどよ~んとした雰囲気に包まれているという政党本部の情景を見たいという底意地の悪さが大半だったりする。やだねえ。

結果については、ほっとした。今回あれだけ問題の多かった自公がそこそこの負けですんでしまったら、日本の将来にとってそれこそ怖いことだと思っていた。あれだけ大差がつくとは思わなかったが。前回の衆院選といい、これが小選挙区制というものか。

安倍政権のダメさを世間の空気に便乗して今さら書く気持ちはないけれど、それにしても大臣が自殺した内閣というのは験が悪すぎる。凶兆を背負ってしまった人物が国のトップにあるというのはどうなんだろう。安倍氏は辞任して、靖国でもどこでもいいけどお祓いを受けて、しばらく大人しくしてた方がいいように思う。

かつては、菅原道真や平将門の怨霊を鎮めるために御霊神社が建てられた。自死された大臣にも遺恨の思いがなかったとは言えまい。その思いが祟りとなって、”美しい”日の本に暗い影を兆すことのないよう、本当の意味での禊ぎがおこなわれることが望まれる。汚職で辞任した政治家が地元で再当選して語る”禊ぎ”ではなく、語意通りの禊ぎを。

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2006年11月28日

メジャーに見せかけたマイナー

いわゆる郵政選挙の時に、郵政法案に反対して自民党を追い出された議員たちに対しては、厳しい声が大きかった。郵政法案に反対しても大した制裁はないだろう、と高を括っているなんて、見通しが甘いっていうか、それって政治家としてはダメなんじゃないの、といった雰囲気だった。だが、今になって思うと、たかが郵政程度の問題に反対したことがイコール党への謀反とみなされることが異常だ、という造反議員の主張にも理はある。郵政法案は国の運命を左右する重要法案だ、と息巻いていたのは、当時の変人首相とその腰巾着だった人たちだけであって、なわけないだろーっ、他にもっと大事なことあんだろっ、という感覚こそまともだ。しかし、狂気は往々にして、退屈なまともさより魅力的なもの。どマイナーな郵政問題がいつの間にやら選挙の最重要項目にされちゃった。いやあ、プロパガンダって怖いっすね。

めでたく郵政法案が可決したおかげで、最近、家の近くの郵便局が集配局じゃなくなってしまいましたよ。あそこに投函すると早く到着するから利用してたんだけどなあ。まあ、そのうち民営化の恩恵がありますよ。うちじゃない、別のところでね。僕の中では、サービス低下、よって郵政民営化は失敗、という評価が決定してますが。

「パンがなければ、ケーキを食べればいいじゃない。地方が貧しいなら、みんな都会に住めばいいじゃない」みたいなことを言う人もいますが、そんな短絡的な思考で大丈夫? 大体、今食べてるものは地方でつくられたものでしょうが。ああ、それもすべて海外から輸入すればいいのか!?

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2006年09月29日

コミュニケーション能力

コミュニケーション能力という言葉がある。最近の新入社員はコミュニケーション能力がない、というような使い方をされる。自明の言葉のようだが、果たしてそうだろうか。例えば、ある人間やある層を指してそういう言葉を使う時、その言葉を使った本人が、”コミュニケーション能力が不足している”人間とのコミュニケーションに失敗していることになる。コミュニケーションを成立させる確率が高い人物をコミュニケーション能力に長けているとするならば、”コミュニケーション能力が低い”人間とのコミュニケーションを成立させることができない人間も、コミュニケーション能力が高いとは言えないのではないか。

本当にコミュニケーション能力が高い人間というのは、老若男女、目上目下、社会階層、国や人種といったものを超えて、できるだけ多くの人とコミュニケーションを成立させることができる人間のことだ。ある特定の組織の中でだけ通用する言葉で、いくらうまく立ち回ることができるとしても、それはコミュニケーション能力が高いとは言わない。相手が大統領であっても、先住民であっても、ホームレスであっても、高校生であっても、イスラム人であっても、社長であっても、コミュニケーションを成立させてしまう。それこそが真のコミュニケーション能力だ。

だから、ある人間のことを軽々しく「あいつはコミュニケーション能力が足らない」と言うことは、その人間とコミュニケーションを成立させることができない自分の無能力を表明することでもある。

さらに言えば、コミュニケーションというのは拡大解釈されがちだが、心のふれあいとかそういう話ではなくて、自分の意思を伝えたり、情報をお互いに交換できればいいだけのことであって、本来ドライなものだ。お前の顔など二度と見たくない、という意思であっても、正確に相手に伝えられれば大成功、その人は十分なコミュニケーション能力を証明したことになる。

コミュニケーション能力云々の話は、往々にして何かを排除するために使われることが多く、多分に権力的な性格を持っている。同時に、コミュニケーション能力を盛んに口にする人ほど、本質的なコミュニケーション能力が致命的に不足している可能性が高い。

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2006年08月04日

変なもの

結局のところ、インターネットの魅力は”変なもの”にあると思う。ニュースサイトや企業サイト、有名人のブログなど数多くのアクセスを集めるサイトは、それはそれで面白味があるものの、それらはネット以外のメディアでも接する機会があるもので、ネットならではの魅力という点では弱い。他のメディアやリアルな社会ではあまり省みられない世界が、ネットでは細々ながらも生きている。このゲリラ的なところが、ネットを面白くしているのであり、そういうあり方こそがネットでは王道なのだと思う。

だから、ネットでビジネスを活性化という社会人的にまっとうな考え方は、ある意味邪道であり、ぶっちゃけそんなに儲からないよ、と思う。アンチコマーシャリズムこそがネットの本質なのではないか。

もちろん、システムをつくってそこに多くの客をとりこむことができれば、儲かる。ものすごく儲かる。ヤフーオークションの孫さんみたいに。だけどそういうシステムをつくりあげた成功者は本当にごくごく一部で、まさに一将功成りて万骨枯るみたいな死屍累々の世界だ。

ネットで細々と生きていた変なものが、ごく一部だけで顕彰されていた変なものが、ささやかながらも利益を生みだして、やがてそれが大きく育って、多額の広告宣伝費をかけたものを凌ぐほどの勢いを得たならば、これほど痛快なことはない。今は想像することしかできない、夢の話ではあるけれども。

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虚無の影

景気は回復した、と言うが、日本の中世的な状況は何も変わっていないように見える。何か新しいものが生まれつつあるという感覚もない。これが新しいものかなと思えたものも、数ヶ月後にはそれがなんら新しいものではないということが分かり幻滅、という繰り返しをいったいいつから続けてきたのか。最近は、その期待から幻滅までの時間がどんどん短くなっているような。ブーム、ブーム、ブーム。人間らしい生き方はどこにあるの。

同じ学校名、同じ会社名、同じ国名。だけど数十年もたてば、そこで生活する人間はそっくり入れ替わってる。人間の細胞がそっくり入れ替わり、別の人間がそこに立ち現れているようなもの。同じ名前ではあっても、中身はまるでちがう。それなのに、以前と同じものであってほしいと勝手に願って、勝手に裏切られる。

大切な時期に空っぽの指導者を5年間も頂いてしまったつけは、現在表面化している問題にとどまるものではない。以前はそれほど目立たなかった虚無の影とでも呼ぶべきものが、いつの間にか偏在するようになり、日常化してしまった。何も変わっていないように見えるのに、すべてが変わり果てたように感じる。それは、その虚無の影が日本人の美点を侵食してしまったからだろうか。

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2006年07月16日

ファミコンの日

7月15日はファミコンの日だそうな。Palmでファミコンをプレイするとしたら、NesEmなんかがいいのかな。

個人的に面白かったファミコンゲームは、「不如帰」「スウィートホーム」「三国志 中原の覇者」。結局のところ、ゲームの面白さはどのようなゲームシステムが使われているかという点に尽きる。前二者はその世界を表現するためのシステムが絶妙で、完成度が高い。最後の作品は前二者に比べれば甘いところもあるが、三国志関連のゲームとしてはかなりいい出来。光栄の三国志IIよりも早く発売されており、豊富な計略、陣形、一騎打ちといった要素をいち早く取り入れていたことを評価したい。

わりとしつこい性格なので、買ったゲームは必ずクリアするようにしているが、それでも未だにクリアできていない作品もある(アクションゲームは一周終了でクリアとみなす)。「キングスナイト」「ドラゴンバスター」「リンクの冒険」がそれ。後の二つは再チャレンジすれば、解けそうな気もする。でも今は、アクションゲームに挑戦しようという熱意自体がないからな。存命中になんとかクリアしたいものだ。「キングスナイト」はRPGと勘違いして買ってしまった作品で、小学生当時、友達から連射機能付きのジョイボールを借りてまでなんとかしようとしたが、ダメだった。スクウェアに不信の念を抱いた作品。この作品だけは、生涯クリアを絶望視している。

あと、わりと寛容な性格なので、ちょっと自分の価値観に合わないだけでクソゲー呼ばわりする最近の風潮は困ったものだと思う。だが、そんな僕でも許せない作品は存在する。「時空の旅人」と「ミシシッピー殺人事件」。前者はタイムトラベラーとして歴史を変える壮大な作品、後者は豪華客船で起きた殺人を推理で解き明かす知的興奮が味わえる作品、と期待してプレイしたが、その結果は無惨だった。ツッコミどころ満載というより、ツッコミどころしかない。

それらの作品をネット検索して感想を見てみると、ああ人が思うところは皆同じなのだなあなどと変な感慨にひたれたりもする。

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2006年07月15日

長浜三部作

B000EQHRU6超電磁ロボ コン・バトラーV DVD-BOX
安彦良和 八手三郎
東映ビデオ 2006-07-21

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「超電磁ロボ コン・バトラーⅤ」のDVD-BOXが出るようだ。この調子で、長浜忠夫三部作の他作品である「超電磁マシーン ボルテスⅤ」「闘将ダイモス」のDVDもリリースされることを願う。あと、「未来ロボ ダルタニアス」も。

それにしても昔のテレビアニメは放映期間が長かった。一年近く放送されており、まさに大河ドラマの感がある。その期間の中で、地球人側の描写だけでなく、敵の宇宙人側の描写も交えつつ、途中ロボットのパワーアップがあったり、奇策を用いた敵の攻撃があったりと様々な工夫を凝らして物語は進む。しばしば子どもの時に良かったと感じた作品を大人になってから改めて見直したらがっかりしたという経験があるが、長浜作品などはむしろその逆で、大人になって見たら子どもの時には面白くなかったところが実に味わい深く感じたりする。

ガンダム以降のリアルロボットとよばれる流れに押されがちであるが、長浜作品なくしてガンダムも生まれなかっただろうし、ガンダムを映画的とするならば、長浜作品は歌舞伎的な面白さに満ちている。さらなる再評価を期待したいところだ。

ロボットアニメは、子どもに玩具を買わせるためにつくられていたという側面があるが、長浜氏はその制限の中であらんかぎりの人間ドラマを詰め込もうとした。そのためにスポンサーとの対立もあって、「闘将ダイモス」では放送回数を減らされたりもした。スポンサーにしてみれば、玩具の売り上げに貢献しないようなドラマは必要ないということだ。まったくの推測だが、そういったスポンサー側の高圧的な雰囲気は、三輪防人のような悪役キャラクターに反映されたのかもしれない。

1978年12月号のアニメージュには「闘将ダイモス」は16.2%の視聴率をとった回があるという記述もあり、当時も人気は低くなかったと思われる。子ども向けアニメで人間の普遍的なテーマである戦争、平和、愛、友情をどこまで盛り込めるかという長浜氏の挑戦は成功したと言ってよいのではないか。

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2006年07月14日

脳を鍛えない

頭を鍛えるゲームって本当に脳を鍛えられるの? 他のRPGやアドベンチャーやアクションといったジャンルで得られる効果とそんなに違うの? 最近ゲーム業界低迷してるし、ゲーム脳とかいい加減なこと言われて悪役にされてるんで、ここはいっちょイメージアップを図ろうっていう魂胆ですかな。

便利な現代生活は人間の能力を退化させている、という論を唱える学者は少なくない。車もオートマなんてダメだ、マニュアルにしろ。電卓は使うな、算盤を使え。薪を使って、火を起こせ。ワープロなんてとんでもない、文字は自分の血で書け。身の回りのものを使って、殺傷できる武器をつくれ、等の提言がなされている。

PDAというのも、脳的には良くないのかもしれないな。「俺は一回しか言わん。メモは取るな。てめえの頭にみんな叩きこんどけ」というきわどい取引を毎日繰り返している人の方が、脳は発達するのかもしれん。

そもそも、文字というものが存在しなかった時代。人は人の話を今の数倍、神経をとがらせて聞いていたはずだ。文字のような便利な道具が出現したせいで、人の話を聞かない若者も増えた。そうだ、文字を捨てよう。そうすれば、人間は本来の原初的能力をふたたびよみがえらせることができる。誰もが潜在能力を生かしきり、北斗神拳も使えるようになる。

だいぶ話が逸れてしまったが、やはり思うことは、ゲームジャンルによる脳の使い方はどう違うかということだ。倉庫番やロードランナーやテトリスでは頭は鍛えられないのか。シヴィライゼーションや信長の野望では? バイオハザードと数独はどちらが効果的なのか? そもそもゲームやるより、百マス計算やってた方がいいのか。待てよ、体を鍛えると頭も活性化するらしいよ、走ってたほうがいいのか。走りながらのDSLite。これが次世代二宮尊徳。

脳についての話には多くの人が興味を持つ。だけど、脳についてはまだまだ謎が多い。そこにいろんな人がいろんな論を展開できる余地がある。いい加減なのも多いが。昔の人は言いました。下手な考え休むに似たり。21世紀は人間の体のこと、いろいろ分かる世紀になるようなので、そのうち明らかになりましょう。

惚ける惚けないの話でいうと、エロい人ほど惚けにくいという話もあるんですが、あれは信じていいんでしょうか。エロは頭を悪くする効果も多少あるような気もするのですが、ホントのとこ、どうなのか。そろそろ結論を出して頂きたいものですな。WHOに。

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2006年06月18日

zipangu

まさか21世紀にもなって、「愛国心」がどうとかなんて、いつの時代の話やねんという議論が盛り上がるとは思ってもおりませんでした。戦前戦中の歴史を子どものころに学んだ時、どうしてあんな無謀な戦争を止められなかったのか、賢い人も大勢いただろうに、という素朴な疑問を抱いたこともありましたが、最近は、実際にその時になればなかなか止められるもんではないなという実感がちょっぴり分かってまいりました。そりゃ冷静で客観的な意見を述べた人もいたでしょうが、そういう人は重要な部署から外してしまえばいいわけですし、筋の通った論理かどうかより、発言者の声の大きさによって決まっていっちゃうってこともよくありますしね。

国や郷土を愛するのは当然のことだ、ってまあそりゃそうですが、為政者の唱える愛国心は、建前はpatriotismだけど、本音はnationalismだから、おっかない。nationalismの核の部分は、国のために命を捨てろってことでしょ、そりゃ勘弁してほしい。消費税13%が既定路線らしいけど、それも泣きながら払います。くそ高い自動車関連の税金も払ってるじゃないですか。だけど、国のために命を捧げるなんて、まっぴら御免でさあ。

不気味なんだな。なぜ、こんな愛国心の表記にこだわるかってことが。その裏には、そういうものがなければ、やんなっちゃうようなことを実は準備してるんじゃないかと。そういったものでつなぎとめておかないと、裸足で逃げ出したくなるようなことが待っているんじゃないか、とか。考えすぎかな。それにしても、政府は国民に不安を与えるようなことばかりやってるな。国家と国民はギブアンドテイクの関係なんだから、小さな政府なのにテイクテイクテイクじゃ救われんよ。

なんとなくヨーロッパの国っていいな、とかそういうことを考えることはありますよ。でも、住んだら住んだで嫌な面も見えてくるだろうし、隣の芝生は青いし、国家なんて所詮どこでもいいところもあれば嫌なところもある。そんなこんなで、日本にいた方が楽だから日本にいるわけで、日本が好きで好きでたまらないってわけでもないです。そこいらのブラジル人よりも日本語スキルはあるから、言葉は困らないし。

日本にいて、日本についての評価を下すのは難しい。誰でも自分のことはよくわからない。経済的な魅力以外のことで、日本が好きといって移住してくる外国人がいるが、そういう人たちの方が真の日本ファンなのかもしれないな。

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2006年06月17日

みんながゲーマー

ゲームって今どのあたりなんだろ。今でも悪者にされることは多い。ある程度の年になったらゲームは卒業するもの、といった考え方は相変わらず根強く残っている。ゲームをクリエイトするのは創造的だが、ゲームをするという行為は、現実逃避的、非生産的としてとらえられやすい。でも実際、ゲームはアニメと並んで日本の産業として大きな柱でもある。デジタルゲーム学会なんてのも発足した。だけど、ゲーム産業というのは結局、人を食い物にしているだけなのか。人生の時間を費やすに値する行為なの? それとも単なる暇つぶし以上のものではない?

巨大スペックのハードならば、面白いゲームがわさわさ出てくるってわけでもなく、やはり出来不出来はあり、クソゲーは生まれ続ける。ゲームの面白さの根本が、アイデアというのも変わらない。ゲームによっては、そこで得られる感動が、本や音楽や映画から得られる感動と遜色ないほどのものもある。

ゲームというジャンルは現在進行形であるゆえに、いまだその評価は確固たるものではない。今漠然と「ゲーム」という言葉を使ってしまったが、ゲームといった時は普通ビデオゲームを指すのが通例とはいえ、ゲームには長い歴史を持つ、デジタルでないゲームもある。古代から存在している対戦型ボードゲームの流れと、現在のビデオゲームの流れはどう違うのか。対戦型ボードゲームが例えば戦争を駒などを使って象徴的に描くのに対し、ビデオゲームはより直接的に戦争を描くことができる。より刺激的だが、想像力の入り込む隙がないことが、却ってゲームとしての面白味を喪失させていることもあるだろう。

とにかく進化が速すぎるのだ。ゲームというものを考える暇を与えぬほどに。僕はオンラインRPGというものをやったことがないのだが、それは今まで結末があるRPGに慣れすぎているために、結末のないRPGというものに戸惑いを感じるからだ。元々、テーブルトークRPGがRPGの本来の姿であることを考えると、結末が存在しないRPGの方がそれに近いのだろうが、長年ソロプレイ型に慣れ親しんできたせいなのだろうか、どうも気乗りがしない。だが、オンラインゲームがゲームの可能性を大きく拡大させたことは間違いない。

自分はもうゲームはしないが、ゲームのニュースはついつい見てしまうという人もいると思う。ゲームというジャンルは評価が定まっていないために、どことなく危うさもあり、それゆえに今まさに動いているというリアルタイムな面白さもある。金融の世界や最近の戦争は、よりヴァーチャルに、よりゲーム的になりつつある。”マネー・ゲーム”という言葉は単なる比喩ではなく、今の経済の現実を表現した言葉だ。そう考えると、現代では誰一人、ゲームを卒業することなどできないのかもしれない。

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2006年03月09日

謙譲の美徳

「いよいよ、ワールドカップまであと3か月。月並みですけど、ジーコジャパンにはがんばってほしいですね」

などと、平気でのたまう人がいる。だまされてはいけない。このいかにも平凡なことを言ってるだけだよ~、という態度の裏には、発言者の傲岸不遜さが隠れているのだ。

もう一度、先に挙げた言葉を注意深く見てほしい。「月並みですけど」、という言葉に留意してほしい。その表現に、よくそんな人を見下したような言い方ができるなと、私などは恐れ入ってしまう。

「月並み」。「月」がどんなものか、もう一度確認してみたい。(「goo 辞書 国語辞典」から引用)

地球をめぐる衛星。太陽の光を受けて地上の夜を照らす。自転と公転の周期は等しく、常に同じ面を地球に向けて、二七・三日で地球を一周する。太陽・地球との相対的な位置関係によって満ち欠けの現象を生じ、その平均周期を朔望月(さくぼうげつ)といい、二九・五三〇五八九日である。半径は1738キロメートルで、地球の約四分の一。質量は地球の〇・〇一二三倍。表面重力は地球の約六分の一。地球からの平均距離38万4400キロメートル。

「月」というものが、いかに巨大な存在であるかをお分かり頂けたことだろう。このような巨大なものを引き合いに出して、いかに自分の発言がスケールが大きく、価値のあるものなのかをさりげなく誇示しているのだ。これは最早、慇懃無礼などというレベルを超えた傲岸不遜といって差し支えない表現である。

ちょうど、「ようやく人並みの生活ができるようになりました」というのを、「ようやくヒルズ族並みの生活ができるようになりました」と言っているようなものである。全然、謙譲の姿勢もなければ、へりくだってもいないのである。本当に、自分が提示するものが平凡でとるに足らないものだと思っていて、そういう気持ちを正直に表現したいならば、「アエンデ隕石並みですが、これからは動画配信の時代ですね」と言うべきである。

「智恵子さん。僕の馬並みのものが可憐なあなたのお口にあうかどうか……」
「あらいやだ。そんな遠慮はよくってよ」

美しい日本語を正しく使いたいものである。

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2006年02月25日

挑戦の条件

”挑戦”という美しい言葉は、失うものが何もない人が火事場の馬鹿力的に発揮するようなイメージがあるが、実際には経済的に安定している人ほどいろいろなことに挑戦する。経済的に不安定な人は、失敗を恐れ、保守的になる。挑戦できる人と挑戦できない人の差は次第に開き、やがてそれが格差となる。挑戦という行動は、個人の精神的な要因よりも、個人をとりまく環境に大きく影響される。

挑戦が推奨される一方で、挑戦という行動の基盤となる安定は社会から失われつつある。不安定雇用ばかり増えた社会からは挑戦や活力は生まれにくい。金余り、挑戦者不在という状況は閉塞感を生む。

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株式会社という発明

実のところ、金持ちは馬鹿でもかまわないのだ。だが、貧乏人はそうはいかない。貧乏人は馬鹿だと、そのまま死につながる。だから本来は、貧乏であったり、社会的に弱者だったりする人ほど、頭を磨いていなければならないのだと思う。

株式会社というのは、実によくできたシステムである。金持ちは金はあまるほど持ってるくせに、その金を簡単には手放そうとはしない。金持ちというのは、本質的にケチで人情味がないものだ。またそうでなくては、絶対に金持ちにはなれない。気前がいい人のところに金は自然と集まってくるという人もいるが、そんなよくできた人はなかなかいない。だが、ケチな金持ち連中に、今よりもっとお金を増やせますよと誘えば、身を乗り出して来る。金持ちからお金を引き出すためのシステムとして、株式というのはこれ以上ない発明なのである。

貧乏人がなけなしの預金をはたいて、株式投資をするのは狂気の沙汰だ。そういった人たちは、自分も金持ち席に座れるかもしれないと思っているわけではなく、生活を安定したいというささやかな思いから投資するのだろう。そこに働いているのは、乗り遅れてしまうという不安である。そして、国自体がそういう方向に社会システムを変えているというのも大きい。だが、リスクをとれるというのはそれだけで恵まれている証拠であって、持っている金や情報の量が多いほど、市場では有利にゲームを進めることができる。その歴然とした差が目に見えないおかげで、リスクがあっても人は平気で投資できる。ここはイスラム圏かと見まごうほどの、ちっぽけな銀行利息がその後押しをしているのは言うまでもない。

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2006年02月01日

ニヒリズムとの戦い

今もっとも旬な話題、あいさつ代わりに交わすにはちょうどよい話題のホリエモンについて書いてみる。一応断っておくと、競走馬の話ではありません。馬はイノセントです。黒いのは、オーナーです。

これまでもいろいろ思うところはあったのだけど、どう書いてみても結局のところ、ホリエモンを世間といっしょにバッシングするか、もしくはあえて擁護するかしか立場がないので、どっちも嫌なんでスルーしようかなと考えてた。だが今書いておかんと、意外とこの話題、ものすごいスピードで消費されておしまい、みたいな終わり方になりそうで。ドッグイヤーの年は、転落スピードもドッグイヤーなら、話題の消費のされ方もドッグイヤー。

もともとホリエモンという存在は好きではなかった。これはホリエモンに限らず、そもそも金持ちという人種自体が好きではないだけのことだが、もうひとつ好きになれない理由があった。それは彼が醸し出すニヒリズムが、なんとも言えぬ、いやーな気分をもよおすからだ。そしてそれを突きつめると、自分自身の心にも、ホリエモンのニヒリズムに似た感情が存在することに思い当たる。それを見せつけられるような思いがしていた。

今度のライブドア事件には、闇社会の関与も噂されている。そういうのを聞くと、日本に生まれて何度も味わってきた、この国が抱える問題の巨大さにうんざりする気持ちになる。しかも始末が悪いことは、政治家が悪意をもって、悪政をおこなうとしているわけではなく、彼らがこの程度の政治しかできないことだ。それは能力の問題としか言いようがない。これまでに積み重ねられた失政の蓄積は、もはや手に負えないほどの規模になっている。それを大して有能なわけでもない、小泉政権がどうして対処できようか。彼らにできるのは、あらゆるものを切り捨てつつ、国体を守ることだけだ。

こうした最悪の事態に、人々ができるのは、ある種の諦観をもって、自分の生活に集中することだ。処世術としては悪くない。だが、状況が好転することもない。

問題は、救いがない世界では、時としてニヒリズムが生まれることだ。ニヒリズムの闇は深い。犯罪の根っこには、常にニヒリズムが潜んでいる。

現代世界からニヒリズムを完全に払拭することは不可能だ。ニヒリズムが存在することを前提に、それを中和するような価値を注ぐことでしか光はない。ホリエモンはただ、ニヒリズムの存在を公に表明したに過ぎない。それは、今までの日本社会では触れないことになっていたものだったので、それなりの珍しさはあった。だが、今の日本に必要なのはその先なのだ。ニヒリズムを一瞬であっても弱めるような、新鮮な価値を生みだすこと。それが、ニヒリズムが静かに蔓延する世界を救う唯一の薬なのだと思う。

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2006年01月28日

雑賀孫市は日本のゲバラ?

4062758148新装版 尻啖え孫市(上) (講談社文庫)
司馬 遼太郎
講談社 2007-08-11

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一向一揆をただ単に、信仰による蜂起と考えてよいのだろうか。戦国期は支配層の弱体化によって、それまでなら考えられなかったようなことが可能になった時代ともいえる。武士に憧れ、そのもとで自らの力を生かそうと考える羽柴秀吉のような者もいれば、それとはまったく異なる思想に己の人生を賭けた者もいたのではないか。武士を嫌い、武士の世ではなく、百姓が国を治める世を理想とした者が。一向一揆の戦に身を投じる者の中に、ゲバラやカストロがいたとしても不思議ではない。

雑賀孫市という男がいる。鉄砲を巧みに扱い、最後まで信長に抵抗したとされる伝説的な人物である。鉄砲という当時の最新兵器が、その使い方によっては絶大な力を発揮することを発見したのは、信長が最初ではない。鉄砲を持って砦に籠もれば、少数であっても大軍を撃退できるということぐらいは、誰でも思いつく。ましてや、ゲリラ的な戦いをするしかない一揆衆であれば、鉄砲の有効性は身にしみて感じたはずだ。鉄砲があれば、武士の支配を受けることなく、俺たちの生活を守ることができる、と。

一向一揆衆=百姓の寄せ集めという見方では、その本質を十分にとらえきれない。軍事的プロフェッショナルの戦国大名の軍隊を何度も撃退しているのは、一向一揆軍が合理的で統制がとれた軍隊であったことを示している。兵農分離ができていない戦国期においては、農民と武士を分けることはできない。それに加え、一向一揆軍には、多種多様な人間が参加していたと推測する。それは、高い技能を持ちながらも、それまでの歴史においては冷や飯を食わせられてきた人間たちだ。彼らを結びつけているのは、浄土真宗という思想だけである。

戦国時代を舞台にしたドラマというと、手柄を立てて立身出世という武士的な価値観ばかりがクローズアップされるが、本来、乱世というのは多くの思想が生まれるものである。そのことは、現代を見てもわかるだろう。武士の支配する世界を否定する戦いが、戦国期に数多く起きていることはもっと注目されてもよい。今の目から見れば、武士が再び天下を統一するという歴史を知っているために、その戦いにリアリティが感じられないが、当時は加賀のような一向衆の国が各地に拡大し、日本が百姓の持ちたる国の連邦国家になる可能性も大いにあったと思う。信長もその危険性を察知したゆえに、あれほどの酸鼻を究める虐殺を行ったのだろう。ちょうど、冷戦時代、共産思想の国家が増えることに対してのアメリカの恐れと似ている。

信長は旧来の権威や価値観を打倒し、新しい秩序を打ち立てたとされる。でも、それほど単純な話ではないかもしれない。一向一揆は、表面的には仏教勢力という中世の権威の側に属しているが、そこに生まれていた価値観はむしろ現代的な意識なのではなかろうか。「自由」という言葉は日本史的にはかなり最近の言葉のようだが、一向一揆衆が求めていたものをかたちにすると、その言葉につながる。

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一向一揆とはなんだったのか

織田信長の天下統一に立ちはだかった最大の難敵は、武田信玄でも足利義昭でもなく、石山本願寺を中心とした仏教勢力だった。その蜂起の嵐は燎原の炎の如く、日本各地に拡大し、戦国大名を大いに苦しめた。

徳川家康も若い頃、三河一向一揆と対決しているが、その戦では大変な苦境を強いられている。それというのも、有力な部下の多くが、一揆側に付いてしまったからだ。後にその知略で家康を支える、本多正信のような人物まで、一揆側に付いてしまった。昨日まで味方だった相手と戦わねばならない非情な戦を、家康はなんとか乗り切る。結束の強さで知られる三河武士の精神性は、この悲劇を繰り返すまいという三河人の共通した思いから生まれたものかもしれない。

信長と対峙した、伊勢の長島一向一揆も熾烈をきわめた。信長はその戦で弟信興を失っている。その怒りからだろうか、信長は苛烈なまでの攻撃を命じた。8万の大軍で、3ヶ月間攻め続け、ようやくこれを鎮圧。約2万人が虐殺されたとされる。

加賀で起きた一向一揆では、守護が倒されてしまうほどだった。加賀は前代未聞の「百姓の持ちたる国」になったのだ。

全国の一向一揆ネットワークの中心であった石山本願寺は11年間にわたり、信長と対決し続けた。

こうした戦国期における、一向一揆というものがどういうものだったのかということに興味がある。まだその全容が解明されていないように思えるからだ。どうしても支配者側の視点から、一向一揆というものを考えてしまいがちだが、それでは一向一揆の本質を見落としてしまうのではないかと思う。網野善彦的な視点が必要だ。

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2005年12月19日

騙すか騙されるかダマスカスか

三国志占いなるものをやってみたところ、鐘会だった。「自分の器を過信し惨めにも自滅した魏の策士!」で、「自分の知力を武器に乱世を闊歩するが如く、知力で勝負する野心家で自滅しがちなインテリだぜ!」だそうだ。いい結果じゃないか。鐘会、わりと好きな人物だし。だが、当たっているとは言えないな。知力はともかく、策士になれるだけの度胸がないもの。とはいえ、これを機に鐘会になれるよう、日々一層の精進に励む所存だ。自滅にかんしては、特に精進の必要もなく、達成できそうな気がするな。

ところで、そもそも策士とはどんな人を言うのか。たとえば、この人はどうだろう。

■ニセ医師 診療8年の不思議 (東京新聞)

医師免許がないのに病院などに勤務、患者の診察をしていた「ニセ医師」が六日、医師法違反(無資格医業)で逮捕された。最近まで東京都内四カ所の医療機関で医師として白衣をまとい、計約二千万円の年収を得ていた。八年にわたり二十カ所以上の医療機関での“診療実績”がある疑いもある。経験豊富な経歴だが、不思議なのは雇った医療機関の誰も、ニセ者と気づかなかったことだ。

犯罪は引き合わないと言われる。特に殺人や放火などは愚の骨頂で、自分の一時的な感情を満足させることはできるかもしれないが、逮捕される可能性やそれによる帰結は人生の破滅以外の何者でもない。これにくらべ、政治家や企業幹部が行う贈賄や背任事件のような犯罪は、それによって得られる利益は莫大にもかかわらず、発覚後に課される刑は比較的軽い。受刑後に重職に復帰できることもあることを考えると、下手をすれば犯罪が引き合ってしまいかねない。

記事のニセ医師の犯罪はどうか。詐欺で荒稼ぎして、その後、速やかに店を畳むというのが理想だとするならば、逃げ切ることができずに逮捕されたことは失敗といえる。だが、八年もニセ医師を続けて、二千万の年収を得ていたのだから、いろんな意味でもう十分じゃないかと思う。最大のリスクは医療事故を起こすことだが、それも切り抜けている。ニセ医師というカテゴリーの中では、この人は成功者といえるのではないか。どうやって八年間もニセ医師を続けたのか、そのあたりは誰でも興味があるところなので、獄中で本でも書いたら大売れするかもしれない。

このニセ医師は、普通の医者とは異なるチャンネルで”頭がいい”わけだが、それでもつまるところ、詐欺師でしかない。策士というのは、もっと長期的な戦略で勝負する人を指す。そして策士に求められる資質として意外と重要なのは、人柄のように思う。誰からも信頼されない人は、決して策士にはなれない。騙された側は騙されたことに気づかないか、騙されたことに気づいても、それが不愉快とは感じない。そういうのが策士としては理想的だろう。

これだけ情報にあふれている時代だ。騙されまいと常に身構えているのはかなりしんどい。そのしんどさがこころの隙間を生み、かえってそれにつけこまれることになりかねない。それでは、騙しから身を守る方法としては有効ではない。ならば、どうすればいいか。誰でも騙されるツボを持っている。こころから欲している何かを抱えている。その弱点に意識的であること。もうひとつは、日常的にリスクの少ないものを選んで、ちょっとづつ騙されてみること。そのあたりが、巨大な落とし穴から身を守るコツなんじゃないかな~、などと思ってみたりした。

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2005年12月18日

ふたつの日本

民主党が割れている。前原代表は政策の考え方が小泉首相に近く、これに反発する菅氏や小沢氏や横路氏らとは絶縁状態にあるという。もともと民主党は反自民の旗に集う寄せ集め集団という性格が強いが、ここにきてそれぞれの考え方のちがいは深い対立を生みつつあるようだ。もちろん、ここで割れてしまっては自民の思う壺なので、決定的な破局だけはなんとか避けようという思いは党員みんなが持っているために表面上は平静を保っている。だが、前原氏はつなぎにとどめて、次の代表は自分たちの考えに近い人間を擁立しようという動きと、それに抵抗する前原氏側のせめぎ合いはかなり激しいのではないかと推測する。

ならば、選挙で大勝した自民党は一枚岩か。これも膨らみすぎたゆえの、脆さも抱えてしまったようだ。対米追従の官邸と、福田氏に代表される親アジア派との対立。勢いにのっている今の小泉首相に正面から刃向かおうとする馬鹿はいないが、その風がやむまでは鳴りを潜めつつ、首相と距離を置こうとしている議員もいる。

とはいえ、二つに分かれつつあるのは政党ばかりではない。9月の総選挙の詳細な結果を見て思ったのは、日本自体がふたつに分かれたのではないかということだ。これは経済的な格差や社会的な地位とはもちろんかかわりがあるが、それだけでなく、この世界への見方というか価値体系そのものが異なる層が二つ、この日本に出現したのではないかということだ。

ご存じの方も多いと思うが、総選挙での全体の得票数では、郵政民営化反対派への投票が賛成派を上回っていた。つまり小泉改革は支持されなかったのである。それでも自民党は大勝し、小泉改革はより強力に推し進められる。改革とは誰かを切り捨てることだ。これまで小泉改革によって痛みを与えられた層はより一層の痛みを与えられるだろうし、その層の怒りはさらに彼らを反小泉に駆り立てるだろう。戦後、二つの層がこれほどまでに分断され、対立を尖鋭化させた例はない。その行き着く先に何が待っているのか。

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2005年12月15日

くらやみ乙女

歯医者と理容店を代えるのは勇気がいる。特に歯医者は数は多いが、良心的なところは多くない。何かというとすぐ歯を抜きたがるような、金儲け主義のところは敬遠したい。

幼い頃、親に連れられて行った歯医者で体を拘束されて治療されたことがある。どちらかというと大人しい子どもだった僕にそんな必要はなかったと思うのだが、金属的な拘束具でがっちり体を固められ、宇宙人の実験台にされているような恐怖を味わった。今でも時々、夢に見る。

床屋にも嫌な思い出がある。やはり幼い頃、父親に連れられたその床屋は、組合に加入せず、格安料金で理髪する店だった。おっさんばかりの理容師の中に、なぜか女性が一人いて、その人に理髪してもらうことになった。この女性が美人だったか不細工だったかは、あまり記憶がない。まだ女性を意識するほどの年齢でもなかったし。だが、強く印象に残っているのは、その雰囲気の暗さだ。まだ若い女性だったと思うが、人生に疲れたオーラが全身に満ちており、たとえ彼女が魅力的な人だったとしても、その魅力をばっさり消してしまうほどの暗黒エネルギーが充満していた。しかもその女性、店長からやたら叱られていて、見るも痛々しいものがあった。

彼女は新人さんだったのだろうか。ガキなのをよいことに、店長は彼女の実験台として僕を使おうとしたのだろうか。その疑念は消えない。なぜなら彼女の態度が非常に不慣れというか、なんとなくビクビクとした仕事ぶりだったからだ。彼女のビビっている感じは僕にも伝わり、ものすごい不安感につつまれながら時間が流れた。

最大のハイライトは、剃刀を使う時間帯だった。その作業の直前にも、なにが理由かは知らないが彼女は店長からこっぴどく怒鳴りつけられていて、その憔悴ぶりは見るも無惨だった。そんな様子で首もとに刃を突きつけるものだから、剃刀の冷たさが氷点下に感じた。おいおい、手が震えてないか。風船の次に僕じゃないだろうな。あ。今、切れなかった? なんかしみるんだけど。

泣き叫ぶことさえできない、その恐怖の時間帯を味わった僕は、二度とその店に足を向けることはなかった。それにしても、その後、彼女はいっぱしの理容師・美容師になれたのだろうか。

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2005年11月30日

メイ検のすすめ

言うまでもなく、人生は有限であり、今という瞬間は二度とありません。そんな貴重な人生の時間をブログ書きに費やすというのはいかがなものか。と、さきほど二十秒ほど自問自答してみましたが、かといってそれに代わるものすごーく有益な行動、温暖化を防止する、貧富の格差を解消する、日本の借金を解消する、地震のときにマンションが崩落するのを体を張ってくいとめるためにマンションの前で待ちかまえている、というのもちょっとしんどいなと思うので、今日もブログを書きます。一番いいのは、明日にそなえて早く寝ることでしょうね。

二番目にいいのは、キャリアアップのための資格を取得するための勉強をすることでしょうか。ただ、世の中にはいろいろな資格がありますから、本当に自分にとって役立つ資格を選ばなくてはなりません。少なからぬ時間とエネルギーを費やすのですから、それに見合う資格をとりたいものです。資格業界に利用されないようにしないと。

そこで、将来性が高いと考えられる資格をいくつか紹介します。まず、メイド検定、略称メイ検(ラッシーは無関係)はご存じの方も多いでしょう。メイド喫茶が一般に普及するにしたがって、競争が激化し、メイドにもよりクオリティが要求されるようになりました。そのため、高度な専門技能を習得したメイドを育成するためにメイド検定が登場しました。この検定が生まれた背景には、メイド喫茶を風俗営業とは一線を画したものにしておきたいという業界側の事情もあったようです。なお、最近は巫女さんの技能を認定する、MIKOEICに押され気味らしいですね。

男性の方には、ホストとしての能力を認定するホスト検定がおすすめです。シビアな世界を生き抜くには、欠かせぬ資格といえましょう。また、ハードゲイ認定試験は今が旬の資格です。腰におぼえのある方は、一度挑戦されてはいかがでしょうか。

数ある資格から、本当に価値のある資格を選んでアドバイスする資格カウンセラーにも注目が集まっています。いずれにしろ、たしかな目で嘘っぱちの資格にだまされないようにしたいものです。

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2005年11月28日

身捨つるほどの祖国はありや

ネガティブなことはなるべく書かないようこころがけていますがね。

今日逮捕された西村という人なんですが、前から大嫌いでしたよ。「国のために命を投げ出してもかまわない日本人を生み出す。」なんて言ってるような人はね、信用できません。他にもやけに威勢のいいことを言ってる人を時々見かけますけど、そういうことは日本で日本人に言うのではなく、中国へいって中国の人に言ったらどうですかね。ねえ、太陽の季節。

愛国心という言葉があります。だけど、そのニュアンスは人によってかなり異なります。なぜなら、それが抽象的なものだからです。

家族を愛する、恋人を愛する、友人を愛する、というのは具体的にイメージできます。それらはこちらが愛をもって接すれば、相手もいくらかは応えてくれるでしょう。まったく拒絶されることもあるか(泣)。とはいえ、愛をそそぐ対象としてはもっともふさわしい、適切な大きさといえましょう。

故郷や自分が住んでいる地域への愛はどうでしょう。もしかしたら、具体的にイメージしにくい人もいるかもしれません。近代になってから消失したのがこの地域への愛で、職場と家の往復をくり返すことでなりたっている現代生活では、この部分が穴が空いたような状態になっています。愛をそそぐ対象としては、悪くない大きさだと思います。

では、組織に対しての愛はどうでしょう。愛社精神とか愛校精神とかいうものですね。組織の大きさにもよりますが、こうなると、愛をそそぐ対象範囲はぐっと広がります。対象が巨大化したために、愛着を感じたとしても、その対象のなにを愛しているかが曖昧になります。

さらに広げて、国家に対しての愛はどうでしょうか。日本を愛するというのは、日本のなにを愛しているということでしょうか。政府か、歴史か、文化か、日本人か。日本には現在一億三千万近くの日本人がいますが、これだけの人口を抱えた国家というものを人は本当に愛することができるのでしょうか。人が愛をそそぐ対象としては、限界をはるかに超えた規模なのではないでしょうか。

愛をそそぐという行為は大変なエネルギーを要する行為です。愛をそそぐ対象が大きくなればなるほど、その要求されるエネルギーは巨大になっていきます。国家を愛するというエネルギーを本当の意味でそなえた人間がいるとは思えません。そのため、愛国心は抽象的で漠然としたものであるか、もしくは当人の感情や妄想によって補完されて存在するにすぎません。

左寄りの人や在日の人もまるっと含めた上で日本という国は成り立っているのですから、愛国を唱える人には是非そのすべてを愛してほしいですね。

とはいえ、国家にどれだけ尽くしたとしても、国家がそれに応えてくれるかどうかはわかりません。レスポンスがない相手との愛というのは、やはりどこか妄想的だと思いますよ。平時であれば国家といい関係を築くこともできるのでしょうが、有事となれば国家を生かすために、国民は切り捨てられるでしょう。

実際のところ、侵攻やテロより、一番遭遇する可能性が高いのは自然災害です。災害のことを考えると、国家などという得体のしれないものを愛するより、近所の人と仲良くしておいた方がいいです。

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2005年11月27日

冬が来る前に

寒さが身に応える季節になった。夏はあれほど憎らしかったパソコンの排気熱であるが、寒くなると貴重な熱源となる。音さえなければ、ストレージやサーバー用としてあと2、3台は置いておきたいところだ。

だが、外が寒いからといって家の中ばかりにいては体に悪い。散歩がてら外出すると、人だかりがしているのを見つけた。何かなと思って近づいてみると、村上ファンドの村上さんがジャスコの店頭で投資を募っているところだった。

僕も村上ファンドへの投資については以前から関心があったので、声をかけてみると、今なら最低10億円から投資できるという。たった10億円で、含み益がたっぷりしみこんだ不動産が手に入り、甘い汁が吸えるなら安いものだと思ったが、預金通帳を確認してみると、ほんのちょっとだけ10億には足らないようなので、心ならずもお断りしなければならなかった。村上さんは何とか僕に投資してほしかったようだが、「村上クン、悪いが僕のオイルマネーも無尽蔵というわけではないんだ。あらゆる運用は慎重におこなうようにとかつてソロスに言われたことがある。また今度よろしく頼むよ。ははは、そう落胆するなって」と彼の肩をたたき、その場を離れた。隣にホームセンターがあったので、オイルマネーの大半を使って灯油を購入した。

バブルの頃、証券関係者は小口投資家のことを、おそらく感謝の気持ちからだろう、”ゴミ”と呼んでいたそうである。あれから十数年、空前の株ブームがやってきたとテレビ東京の番組で言っていた。昔、痛い目にあった人は、その経験を生かして新規プレイヤーを餌食にできるだろうか。

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2005年11月22日

食品の期限はあてになるのか

■「賞味期限切れ」でも、捨てなくてOK (WIRED NEWS)

 そろそろ古い保存食品の整理をしなくては――今度そう思ったときは、気にせず先延ばしにしてかまわない。

 メーカーが設定した賞味期限を過ぎたあとも、多くの食品は何年、あるいは何十年と食べられる状態にあるからだ。

賞味期限が設定されている食品は劣化が緩やかなので、賞味期限が過ぎても安全性にはあまり問題がないとされる。そもそも賞味期限は美味しく食べられる期間とされているが、メーカーはわりと厳しめに決めているようなので、期限後に急にまずくなるというわけでもない。

消費期限の方はどうだろうか。味を保証する賞味期限に対し、品質の安全を保証する消費期限が過ぎた食品の摂取にはそれ相応のリスクがともなうとされている。消費期限の切れた食品のアウト・セーフを誰かがジャッジしてくれるといいのだが。

賞味期限、消費期限の設定は業界各社ごとの基準があるようだが、部外者にはどの程度厳密なものなのかは判然としない。個人の体質にも関係するが、知人の話では納豆は期限切れでもわりとOK、乳製品はある程度覚悟せいよというところらしい。

だが、僕自身は正直こんな話に興味はない。なぜなら期限の切れた食品など、さっさと捨ててしまうからだ。毎晩、贅沢な美食に囲まれて、飽きるほど食べ、満腹になったら鳥の羽でのどを刺激して嘔吐し、さらに食べている。そんな古代ローマの美食家のような僕にとっては、期限の切れた食品にまで手をつけねばならんとは、下流社会の人間の哀れを思わずにはいられない。

ところで、消費期限の切れた生菓子をいつも送ってくる親戚があるのだが、どういうつもりか。僕がこんなものを食べるとでも思っているのだろうか。片腹痛い。あ、あれ。本当に痛くなってきた。ううう。やっぱりやめとけばよかった……。

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2005年11月02日

高山良策の怪獣造形

怪獣53 ツインテール

GyaOのドキュメンタリーチャンネルで、高山良策の特集をやっている。高山良策はシュールリアリズムの画家だが、円谷プロで怪獣造形の仕事をしていた。初期のウルトラシリーズ、「ウルトラQ」「ウルトラマン」「ウルトラセブン」には印象深い怪獣が多いが、それを手がけたのが彼である。怪獣デザインの成田亨とともに、日本特撮史には欠かせない人物といえる。

僕はウルトラシリーズでの仕事のことしか知らなかったが、第1回の放送では、大魔神も高山の造形だったことが紹介される。たしかに、大魔神の迫力には独特のものがある。

今でもウルトラシリーズはつくられているが、人々の記憶に残るような怪獣は少ない。怪獣のエッセンスは初期三部作(および、初めの方の「帰ってきたウルトラマン」)で、出し尽くされてしまったような感さえある。もちろん、今の作品も懸命にアイデアを突きつめているのだろうが、ストーリーはともかく、怪獣の魅力という点ではかなり苦しい。

高山がシュールリアリズムの素養を身につけていたということもあるのだろうが、怪獣一体一体に、彼が真剣に取り組んでいたひとつの結果がそこにある。本業のシュールリアリズム画家としてより、怪獣造形で名が売れたことに対し、彼自身は複雑だったのかもしれないが、彼が制作した怪獣すべてに彼の作家性は十二分に表現されていると思う。

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2005年10月06日

無視された風景

先の衆議院総選挙のことは振り返りたくもないが、いまだに釈然としないことがある。

岐阜一区の自民党公認候補佐藤ゆかり氏の応援に、小泉首相は岐阜市の十六銀行本店前で応援演説をおこなった。首相の姿を一目見ようという人たちで、ものすごい熱気だったそうだ。親小泉にしろ、反小泉にしろ、総理大臣という有名人を見たいという気持ちはわからんでもない。

だが、小泉首相が熱弁をふるったそのすぐ近くには、新岐阜百貨店とパルコという閉鎖が決まっている大きな店舗があった。それらの店舗が閉鎖した理由を首相に押し付けるつもりはないが、これまで四年間の小泉政権の経済政策とまったく無縁ではあるまい。

小泉首相の応援演説にかけつけた人たちは、小泉さんを見るより、周りの風景を眺めてみるべきだったと思うのだ。

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2005年09月24日

ソニーのたうちまわる

Amazonのおすすめ商品のページを見て思うこと。

「俺のこと、わかったような気になるなよ」

ソニーが苦しんでますねえ。先頃発表された中期経営計画はブーイングの嵐だし、iPod nanoとウォークマンAを比べたら、そりゃiPod nanoを選びますよ。デザインや機能、価格を考えたら。

ソニー製品を選ぶのは、ブラウン管テレビやラジオを買うときかな。そういったレガシーなAV製品では、まだまだソニーというブランドに安心を感じるからね。でも、先端の製品では、ソニーを避けると思う。価格に見合うだけの質があるかという点に、疑問符が付くので。

CLIE生産中止で、ソニーからすぅっとこころが離れたのは事実。それでも、今ソニーの製品で多少なりとも面白いと思っているのは、ロケーションフリーテレビとPSP。前者は、それがもたらす新しいテレビ体験に興味を感じる。ただ、コンテンツとして見た場合、今のテレビにそれほどの魅力を感じないというのもあって、たぶん買わない。後者は、事実上のCLIE後継としての期待。だけど、ゲーム機は別にいらないんだよなあ。GPS機能を備えたら、買ってもいい。

あらためて今のソニー製品ラインナップを眺めると、いまいち感でいっぱい。新しさを感じないというか。CLIEはなんだかんだ言って、製品発表のときにわくわく感があったんだけど。まあ、そういうわくわくが広がりをみせなかった故の生産中止ともいえる。

あえて乱暴なこと書くけど、携帯音楽プレイヤーはアップルに、液晶テレビはシャープにもうまかせちゃっていいんじゃないの。

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2005年09月21日

志の高い人

これまで、リベラルさに期待して民主党を支持してきたのだが、小泉首相とほとんど同じ考え方をする前原党首では、保守政党がもうひとつ増えただけではないか。なんてこったい。

これぞまさに憲法改正の好機到来とほくそ笑んでいる人もいるんだろうな。

憲法を変えて、結果として日本が良くなるか悪くなるかはわからないので、憲法改正ではなく憲法改定と言うべきだ。憲法改定についての僕の考えは、憲法を永遠に変えてはいけないとは思わないが、今は改定のタイミングではないと思う。

しかし、護憲派は旗色が悪い。空前の保守右傾ブームだ。護憲派はマイノリティになりつつある。どうすれば支持を増やしていけるだろう。

スターが欲しいな。たとえば、土井香苗さんなんかはどうだろう。美人だし、頭いいし、志高いし。多くの人を惹きつけられるんじゃないかな。

ところで、土井さん、僕と年が同じぐらいなんだよな。人間としてのレベルの差を感じる……。少しでも近づけるよう、著作の『ようこそ"と言える日本へ" 弁護士として外国人とともに歩む』でも読みますか。

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2005年09月15日

悪夢

41504000831984年 (ハヤカワ文庫 NV 8)
ジョージ・オーウェル
早川書房 1972-02

by G-Tools

もしかすると、僕たちは今、新しいディストピアが誕生する瞬間に立ち会っているのかもしれない。

ディストピアな世界に生きる人々の顔は、必ずしも暗くない。不思議な明るさが街を支配している。疑いさえもたなければ、今よりも楽に生きられよう。

でも、人々はかすかな心のしこりも感じている。喪失感だろうか。だが、何を失ったのかわからない。

そんな未来に思いをはせて、今はひとまず、共謀罪を見守ろう。

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2005年09月14日

フィーリング原理主義の台頭

「有権者は白紙委任したわけではない」という言葉には何の意味もないな~。現実に国民の声を政治に届ける機会は選挙以外ないわけだから、間違いなく白紙委任しちゃったんだよねえ。

マスコミの論調にどうして苛立つのか考えてみると、言葉から危機感というものが感じられないからなんだな。世間とマスコミの論調に乖離があることは明らかで、世間はマスコミよりはるか先に進んだ場所にいる。その場所をよしとする人、その場所はよくないという人と見方は分かれるけれど、それぞれの意識の鋭さに、マスコミは追いつけていない。

経済格差の二極化が、人々の考え方にも二極化を生みだしている。それは意識が高いとか低いとか、そんな単純な話ではない。一見、意識が低そうであっても、感覚的に世の中をよく見ている人がいる。あえて代表的な人物を挙げれば、我が国の首相ということになろうか。彼とよく似た、道理より自分の感覚を信じる人たち、今回の選挙で主役だったのはそういう人たちだった。そうしたフィーリング主義は、今やより激しさをまして、より原理的になりつつある。

フィーリングだけで物事を進めるのは危ないからやめてくれ~という悲鳴。何言ってやがる、不透明で閉塞した時代はフィーリングで突破していく力強さが必要なんだよという歓声。

お楽しみはこれからだ。

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2005年09月13日

わかりやすいということ

わかりやすい小泉首相が勝った。今回の選挙を一言でまとめると、そうなる。逆に言えば、わかりにくい民主党が負けたということである。

今日、わかりやすいことは、何にもまして良いこととされる。時間が勝負を分ける現代である。まどろっしいことはやめてくれ。要するに何が言いたいんだ。一言で言ってくれ。そういう時代に、小泉首相はよくマッチしている。

だが、同時に現代ほど様々な分野において、複雑化している時代もない。とりわけ、政治的な問題はグローバル化などの要因によって、ますます複雑になっている。だから、政治という複雑な性質をかかえるジャンルについて、単純化して一言で語ろうとする試みには、実はかなり無理がある。あえてそれを行おうとすれば、抜け落ちていく部分が必然的に生じる。

わかりにくかった政治を、小泉首相はわかりやすく、身近にしてくれた。そう評価する人もいる。たしかに、今までの自民党政治は密室で首相後継が決まるような、不透明さはなくなったようにみえる。だが、政治家が本当のことを語ってくれるようになったかというと、そんなことはない。今の日本にとって、本当に重要なことは巧妙に隠されている。

僕は国民を騙している政治家を非難するが、同時に政治家はそういうものだとも思っている。むしろ、騙される国民の方に責任がある。昔のように、情報を囲い込めた時代とはちがうのだ。今は、情報そのものは国民の前に示されている。もちろん、都合の悪い情報は見えにくい場所におかれているが、その気になれば、手に入れることもできるし、限られた情報から真実に近づくこともできる。情報不足による判断の誤りは、国民の言い訳にならない。

どんな分野でもそうだが、初心者から中級者になるには、いくらかの努力と時間を必要とする。政治や選挙だって同じだ。僕も投票権を得た直後の投票は、感覚で決めていた。また、これまでの投票を振り返ってみて、投票した人が実はくだらない人物だとわかったときや、投票した党が消滅してしまったりて、いまだに悔いの残る投票もある。こうした苦い思いを何度も味わって、自分の判断に多少の自信をもって投票できるようになったのはつい最近のことだ。

くり返すが、政治家はまず真実は語ってくれないものだ。だから、わかりやすく語ってくれるのを待つよりも、自ら知りたいと思う情報に近づいていく方がいい。時間と手間はかかる。だがそうすれば、隠されているものが見えてくる。

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2005年09月12日

ファシズムさん、こんにちは

最近、大手の新聞が物足りなく感じて、日刊ゲンダイを買って読むことが多い。最近などは反小泉キャンペーンのような記事ばかりで、偏向報道に徹する姿勢がすがすがしい。だがその努力もむなしく、昨日の選挙結果はご存じの通り。ついにキレたのか、今日の見出しは、「この国の民主主義は死んだ」「もはや何も言うことなし」「この選挙結果は狂気の果てだ」「全く情けなかった民主党、これからこの国の暗黒の10年が必ず始まる」。

タブロイド新聞にありがちの、誇大妄想的な見出しだと思いますか。僕はそうは思いません。大筋のところでは、その通りだと思います。

どんな結果が出ようと、それが国民の意思である以上、尊重する。というのが、民主主義国家に生きる者としての正しい態度でしょう(というより、尊重するも何も、増税だろうが、憲法改定だろうが従うしかないんですが)。でも今回の選挙結果によって、民主主義の理念や英知などは吹っ飛んでしまった。これから、日本の民主主義は急速に形骸化していくと思います。そんな民主主義が形骸化していく時代に、ありもしない民主主義をあるように演じるのが、今後の僕たちに与えられる役回りかもしれません。少なくとも、メディアはうまく演じていくでしょう。

こんな気持ちになるのは「今度の選挙は小選挙区制だったからこのような自民党の地滑り的な大勝になった。だが、小選挙区制は実際の投票数の差以上の議席差が生じる。風向きによっては、今後、地滑り的な政権交代もありうる」という言い方に疑いを感じるからです。この国でいかに政権交代が難しいかが明らかになったのが、今回の選挙です。にもかかわらず、そのような政権交代に希望をもたせるような言い方には欺瞞を感じます。二大政党制というのも幻想だったのかもしれません。

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2005年09月05日

ほっとけない日本の貧しさ

■町工場で聞く景気『踊り場脱却』 (東京新聞)

「踊り場脱却」宣言に真っ向から疑問を突きつける数字がある。経済協力開発機構(OECD)が加盟国の貧困状況に関して比較調査した結果だ。

 国民の平均所得の半分以下しか所得がない家計を「貧困者」とみなし、国民全体の何%になるかを示すデータで、20・3%のメキシコを筆頭に米国17・0%、トルコ15・9%、アイルランド15・4%と続く。この次が15・3%の日本だ。世界で五位、中進国のメキシコ、トルコを除けば、日本は先進国三位の“高貧困率国”という地位にいることになる。

 「格差拡大が想像以上に進んでいる現状にショックを受けた。一億総中流はもう消えた」と京都大学の橘木俊詔教授(労働経済学)は話す。この数字は約十年前の二倍前後で、事態の深刻さを如実に示している。

平成15年度の国民年金未納者数は440万人だそうです。この方達がみな、年金への不信感だけが理由で払わない人であればよいのですが(よくはないか)、実際は払いたくても払えない人が多いのでしょう。今後さらに年金の負担額は上がっていきます。そうなると、ますます払えません。結果は、無年金者がいっぱいの社会です。

大量の餓死者が出ますね。

郵貯・簡保には総額340兆円のお金が集まっているとのこと。異常な数字です。だが、この数字は預金者が抱く、将来への不安感を示しています。将来に不安を感じている人間ほど、リスクを回避しようとします。リスクをとるためには、経済的精神的に余裕が必要です。そのような余裕がなく、不安を感じている人は、できるだけお金を使わないように、元本保証の安全な金融商品を選ぼうとします。

きわめてシンプルな話です。年金や社会保障や雇用を満足できるものにして、将来への不安を払拭してやれば、人はお金を使うようになり、リスクのある株式などへの投資もおこなうようになります。そうした方面に無策であるかぎり、内需はいつまでも低迷し、景気は低空飛行のままでしょう。

将来不安の解消という重大事にくらべれば、郵政民営化などどうでもいい。実に取るに足らないことです。

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2005年09月02日

市民政党

日本の不幸は、市民政党や市民運動が大きな力を持てないことにあると思う。日本では運動に参加している人は、特殊な人とみなされてしまう。確かに、うさんくさい市民団体やNPOも少なくない。日本での民主主義は、まだそこまで成熟できていないのだろうか。

共産党や社民党の主張の中には、市民のための政党にふさわしい主張もあるものの、残念ながら両党とも色が付きすぎて、清新なイメージがない。民主党にはいくらかの期待はしているが、そのバックボーンは市民政党とはほど遠い。本当は真に市民政党を名乗るにふさわしい新たな党が生まれるのがベストなのだが、小選挙区制の中ではなかなか難しい。

今度の選挙ではいくつか新党が誕生したが、市民政党と言うにはイメージがねえ。

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2005年09月01日

都市と地方

今度の選挙で最も注目している点のひとつは、都市部と地方の有権者がそれぞれどのような投票行動にでるかというところだ。

■比例区投票先は自民増29%、民主減14% 本社調査 (asahi.com)

「総選挙で議席が増えてほしい政党」でも、似たような傾向が表れている。大都市部に限ると、自民34%、民主23%なのに対し、町村部では自民19%、民主29%と民主が多くなっている。地方で強い自民、都市部で強い民主――という従来の支持構造に変化が表れている。

 背景には、郵政民営化などの改革を進める首相への共感の度合いがあるようだ。「首相の政治姿勢に共感するか」をみても、大都市部では「共感する」が39%で、町村部では32%と低めだ。小泉改革が、有権者の投票行動に影響を与えそうな様子がうかがえる。

僕が住んでいるのは、岐阜県という、保守王国で自民一色のところなのだが、ご存じの通り、今回の選挙では自民支持層が割れてしまっている。いわゆる”刺客”候補と、反小泉派候補が「我こそが自民党なり」とお互いにしのぎをけずっている。さらに自民党執行部の意向に逆らって、岐阜県連は郵政反対派候補を応援しているので、もし自民党が勝利すれば、選挙後、県連は処分を受けることになる。おそらく、かなりいじめられるだろう。つまり、県連としては自民が勝っても負けても、ろくなことはないということである。

地元に縁もゆかりもない候補を送り込む手法は、都市部では受けいれられやすいと思うが、地方では果たしてうまくいくだろうか。僕のような田舎者の感覚だと、刺客候補は頭いいんだろうけど鼻持ちならない雰囲気が好きになれないし、反小泉派候補のすがたに判官贔屓的な感情も抱く。政策とは無関係なところでね。

思えば、小泉首相はこれまで無党派層をとりこむための試みを着実に重ねてきた。それは、従来からの支持層を失う危険もある試みであるが、おそらくこの方法でしか自民党が生き残ることはできないという判断だろう。それは間違っていない。これまでの自民党は地方に公共事業などの仕事をもってくることによって、票を得てきた。だが、厳しい財政状況の中では、もはや地方にまわせるような仕事はない。それは自民が地方での存在価値を失うことを意味し、今後地方での票は期待できなくなる。そうなった以上、都市部の無党派層を掘り起こし、取りこんでいくしかないではないか。

今、都市部の人が見ている日本と地方の人が見ている日本はまったく異なっている。地方の多くは希望がない。外需依存の経済から、内需主導型の経済をめざすべきだということは80年代から繰り返し言われてきた。それは公共事業で食いつなぐ経済は、いつか終わりがくるからだ。そして今、公共事業は縮小され、これから地方はどう食っていけばいいのか、途方に暮れている。経済構造が変わり、都市部の景気回復が地方に波及する度合いは極めて低くなっている。

地方で民主党が伸びているのは、それだけ自民党に幻滅しているということだ。もちろん、民主党を信用しているわけでないが、今の小泉自民党よりはましだという意志の表明だろう。小泉首相の手法は、政策も政局も選挙もすべて都市向けだ。だから、都市部での人気の高さは当然だ。だが、それらは地方にとっては反感の種になっている。

今のところ、都市部の圧倒的な小泉人気がそのまま反映されれば、自民党圧勝だ。だが、どうだろう。都市部の人は、口では小泉支持でも、肝心の選挙に行かない人も多そうなのだが。逆に地方の人は、「~さんに頼まれたから」なんていう理由の人も多いけど、選挙にはわりと熱心に足を運ぶ。今回の選挙では、都市部と地方で大きく結果が分かれるかもしれない。

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2005年08月31日

投票率

近年、投票率の低下が著しく、政治への無関心がすすんでいるといわれている。今回の衆議院総選挙はワイドショー選挙と呼ばれ、人々の高い関心を集めているようだが、果たして実際の投票率はどうなるのか。

投票率の低下は、民主主義の危機を示すものと言っていい。だがどうして、投票率が低下しているのか。投票率の低下は、先進国に共通してみられる現象で、日本だけのものではない。ということは、文明社会の成熟が、必然的に投票率の低下をもたらすのかもしれない。

本当に投票率を上げようとするならば、投票行動にかんする詳細なデータを分析し、戦略的な選挙キャンペーンを実施する必要がある。ただ有名人に「投票に行こうよ」と言わせるだけでは、投票率の低下傾向には歯止めがかからないだろう。今の時代、道徳的に投票をすすめたところで効果は薄い。

たとえば、投票に行かないという行動には、合理性はないのか。投票に行かない人の心理、社会的階層、経済状態、知的水準を調べてみたい。経済的にも精神的にも満足していて、貴重な休日を選挙行動なんかに費やすより、遊びにいった方が合理的だという人もいるだろう。自分の生活に不満はいっぱいだが、残業ばかりで政治のことなど考える余裕はないという人もいるだろう。自分の投票行動が社会にどのように反映されるのか見えないので、行ったってムダさというシニカルに諦めている人もいるだろう。こうした声を集めて、どこに原因があるのか探るのだ。

地方の首長選挙なんかではよくあるのが、自民党現職と共産党候補の一騎打ち。正直言わせてもらえば、結果は見えていて、選挙はほとんどセレモニーと化している。こんな選挙では投票率が低下するのは当然だ。

選挙に行かない人は単に無知な人なのか。それとも、それはある種の合理性をともなった行動なのか。そのあたりを掘り下げれば、そういった人たちに対しての別なアプローチも見えてくると思う。

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2005年08月30日

選挙とブログ

■「今回はブログ普及後で初の選挙」自民党幹部がブロガーら33人と懇談会 (INTERNET Watch)

自由民主党は25日、ブログおよびメールマガジンの作者33人と党幹部との懇談会を自民党本部で開催した。自民党からは武部勤幹事長と世耕弘成広報本部長代理が出席した。安倍晋三幹事長代理も出席予定だったが、台風11号の影響により新幹線が遅れたため欠席となった。

日本ではブログの影響力なんてまだまだ無いに等しい。だが、メディアの状況が変わりつつあることから、将来ブログが世論の形成に何らかの力をもつ可能性は少なくない。そうした将来を見すえて、今のうちからこうした手を打ってきている自民党。ううむ、恐るべし。でも、選挙にネットを使うのに異議をさしはさんだのも自民党なんだけど。

ただ思うんですけど、メディアってのは多少なりとも反体制的でないと存在する価値がないと思うんですが。反体制なんて言い方もなんなんで言い換えると、今ある状況に批判的でないメディアなんて無意味じゃないかと思うんですよ。政府のスポークスマンみたいなのばかりが増えても仕方がないでしょう。

現在、マスコミの多くは官僚的になりつつあり、政府に批判的でない、無難な報道しかしません。もちろん批判ばっかりというのも芸がない話なので、それぞれの施策について是々非々で判断すべきでしょう。でも現政権がやっていることを黙認するだけならば、メディアはその存在意義をみずから放棄しているといえます。

かつて、インターネットによって市民によるリベラルな民主主義が実現されるということが言われたことがありました。しかし、ふたを開けてみれば、ネットの方がむしろ保守的であったり、体制に従順だったりします。どういうことでしょう。僕は、これはネットの特質というより、時代の風を敏感にネットが反映しているのだと思います。

今の時代の風というのは、要するに新自由主義ブーム、小さな政府ブームということです。しょせん、新自由主義というのも思想としてのブームに過ぎず、その賞味期間は限定的です。とはいえ、今後数年間(10年ぐらいか)はこの風が猛烈に吹き荒れることでしょう。そして行き着くところまで行き着けば、市場原理や小さな政府の限界が明らかになり、今度は大きな政府が叫ばれるようになる……。

願わくば、その失政のなかで、徴兵制の復活や、政府に批判的なブロガーにテロリストのレッテルを貼って、しょっぴくという事態にまで至りませんように。

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2005年08月10日

シャツ

B00009V9FQNHK「その時歴史が動いた」 幕末編 DVD-BOX
ドキュメント
日本クラウン 2003-07-24

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今日の「その時」は、シャツの裾をズボンから出した時です。

ふと思ったのですよ。カジュアルなシャツを着たときに、その裾を外に出すのは今はもう当たり前ですよね。でも自分はいつからこの慣習に従うようになったのかと。シャツをズボンに入れる時代と、シャツをズボンから出す時代の移行期はいつだったのかと。

テニスが好きでよく見るんですが、そのファッションは時代によって変化しています。マッケンローが活躍していた時などは、シャツの裾はズボンの中に入れられていました。だけど今の選手は、シャツを外に出しています。シャツを入れるかつてのスタイルは、選手に紳士的なイメージを与えていたと思います。シャツを外に出す現在のスタイルは、闘志を前面に出す、荒々しい格闘技的な雰囲気を生みだしています。このファッションの変化は、最近のテニスが、テクニック以上にパワーとスピードが要求されることとも無関係ではありません。

今の時代、もっとも必要とされる資質は、タフであることです。知識や技術も大切ですが、この混沌とした何でもありの時代に求められるのは、何事にも動じないタフさ。シャツをズボンに入れるスタイルは、物静かで大人しい印象を与えます。かつては、そういった礼儀正しさが尊ばれていました。しかし、時代が変わり、乱世になると、求められるものも変化します。自己主張を前面に押し出し、競争を勝ち抜いていくことが重視されます。そうした時代が求めている資質を自分がそなえていることを、シャツを外に出すという行為によって、無意識的に表現しているのではないかと思います。つまり、日本が混迷の時代に入った1990年代、時代の変化をキャッチした人々はシャツを外に出すようになり、急速にその価値観が受けいれられていったということではないでしょうか。

あと単に、日本列島が温暖化してきたので、シャツを出さないと暑くてやっとれんというのもあったでしょう。

シャツを外に出すという前提でつくられているのとそうでないのとでは、裾の長さがちがいます。僕は最初のころ、裾の長いシャツを外に出していたので、かなりダサかったと思います。また、腹を冷やすと下痢しやすい体質なので、人目がなければシャツを入れておくことも多いです。

本日も御覧いただき、ありがとうございました。

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2005年07月28日

私的録音補償金

B0007YT8VGApple iPod 20GB [MA079J/A]
アップルコンピュータ 2005-06-29

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今日の「NHKニュース10」の内容が「デジタル音楽プレーヤーに新たな負担金?」とあるから、私的録音補償金をHDDプレーヤーに課そうという動きについて紹介されるのだろう。どう考えても愚行としか思えないのだけど、権利者団体は思いの外、本気モードのようで。HDDプレーヤーに加え、PC内蔵のHDD、外付けHDD、データ用CD-R/RWも対象に、とのことなので、フラッシュメモリープレイヤーやメモリーカードも対象に入ってくると思われる。こんな無茶なことはいくらなんでも通らないとは思うが、かなり大きな問題になってきそうだ。

発泡酒や第3のビールが売れると、ビール並みの課税にしろという声があがったり、売れたものから掠め取ってやろうと群がる人ばかりが目につく。この国は本気で産業を育てるつもりがあるのだろうか。

■「iPodからも金を取れ」――私的録音補償金で権利者団体が意見書 (ITmedia)

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2005年07月23日

credit card

4004307791消費者金融―実態と救済 (岩波新書)
宇都宮 健児
岩波書店 2002-04

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最近、僕が住んでいる地方都市に大型商業施設の進出が相次いでいる。行政も税収の減少に苦しんでいるので、こうした動きを歓迎している。こうして我が街も着実にファスト風土化しつつあるわけだ。犯罪も増えるだろう。

こうした場所に行くと、やたらクレジットカード契約をすすめられる。たしかに、ポイントや割引の特典がついてお得そうだ。以前の日本人はカードに対しての警戒感が強く、なかなかキャッシュレスなカード社会に移行しなかったが、ここにきて急速にクレジットカードが一般にも受けいれられはじめたように感じる。

こうした流れは消費社会としては自然なことではあるが、大丈夫かなとも思う。韓国で数年前、カード破産が相次いだという報道があったが、日本もそうならないとは限らない。消費者教育はまったくなされていないし、大手銀行も消費者金融とタッグを組んでいる時代だ。カード破産は誰にもありうることだ。

それに加えて、個人情報漏洩の懸念もある。

■楽天からクレジットカード番号を含む個人情報が初めて流出 (CNET Japan)

楽天は7月23日、楽天市場に出店している店舗の一部取引に係る個人情報が流出したと発表した。

 マスコミから「楽天市場の店舗での取引に係る個人情報が流出しているという情報があるが、真実か」との問い合わせが楽天にあり、このマスコミの持っていた流出情報を照合したところ店舗の情報と合致したため、流出の事実が判明した。

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2005年07月18日

コスプレ

B0018OFG062001年宇宙の旅
スタンリー・キューブリック アーサー・C・クラーク
ワーナー・ホーム・ビデオ 2008-07-09

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外国では日本のことを「クール・ジャパン」などと好意的に見る向きがあるそうである。いい気なものである。このくそ暑い日本がどうしてクールなのか。一度、名古屋や大阪のヒートアイランドを体験してみろと言いたい。

こうした誤った日本像が広まるのは、日本が世界に十分情報を発信していないからである。ごみ一つ落ちていない美しいフジヤマ、中継される時間帯には街から人がいなくなるほどの人気のゲイシャ相撲、ハラキリの作法は家庭で教えるべきか、それとも学校で教えるべきかという議論が国民全体で交わされていることなど、正しい日本のすがたをもっと世界に伝えるべきである。

ただ、日本のすがたというのも時代によって変化しつつあるのも事実である。最近の日本では、オタクとよばれる若者の存在に注目が集まっている。特にメディアで取り上げられるのは男性のオタクについてだが、私の見るところ、本当に興味深い存在なのはむしろ女性のオタクである。女性のオタク世界の奥深さはもっと注目されてよい。

女性のオタクに人気なのが、コスプレという行為である。今や日本のいたるところで、コスプレを見ることができる。たとえば、病院に行くと看護婦のコスプレをした女性が数多くいる。会社に行けばOLのコスプレをした女性が、高校に行けば女子高生のコスプレをした女性であふれている。わざわざその場所に行かなくとも、街を歩くだけでそういったコスプレの女性に会うことができることを考えると、日本はコスプレ天国と言えるだろう。

さらにコスプレという文化は日本のみにとどまるものではない。アメリカNASAの宇宙飛行士も、SF映画の影響を受けたような宇宙服コスプレで宇宙に向かう。宇宙に行く以上、宇宙人と遭遇する可能性もある。その際にあのようにふざけた格好では、宇宙人を怒らせてしまうのではないか。宇宙人だからといって、地球人よりリベラルな思考の持ち主とは限らない。そう考えるのは、多分にそうであってほしいという地球人の願望が反映されたものであって、極めて保守的な考え方をする宇宙人と出会う可能性もある。そのような時、相手への失礼があってはならない。些細な感情のしこりが、宇宙戦争さえ引き起こしかねない。

私は宇宙飛行士の方々に宇宙服コスプレをやめろとは言わない。かの源義経公が赤絲威鎧コスプレをして戦に望んだように、危険と隣り合わせの宇宙飛行という仕事には、自らの士気を鼓舞するためのコスプレが必要だろう。だがせめて、宇宙服の上からネクタイを締めてはいただけないだろうか。ネクタイさえ締めていれば、宇宙人といえども我々人類を邪険に扱うことはないだろう。

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2005年07月17日

発見

B00005S0D11492コロンブス
ジェラール・ドパルデュー, シガニー・ウィーバー, リドリー・スコット
松竹ホームビデオ 2001-12-21

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大航海時代、ヨーロッパ人によって新大陸が発見されたという史観は、先住民の視点を無視したものとしてしばしば批判の対象とされる。すでにネイティブの人たちが住んでいる土地を、後からやってきた者が”発見”したとは何事か、冗談は顔だけにしろよ(by アーノルド坊や)ということである。

こういった、すでに存在し、ひとつの世界を築いているものに対して、後から目をつけた新参者がその世界をかき回すという事態は現代でも数多く起きている。たとえば、大型店の出店によって、中小の商店が蹴散らされ、それまであった共同体が壊れてしまうという現在の地方の構図がそうである。また、牧歌的だった日本語Palmの世界に新参のSONY帝国が乗り込んできたことも、一時的にPalm界を活性化させたものの、英語版Palmしか手に入らない時代に結果的に引き戻してしまったと言えるかもしれない。

この不況下で生き残るために、なにか儲けの種はないかと、新しい鉱脈を求めて人々は日夜蠢いている。”失われた十年”の中で、日本の鉱脈はあらかた掘り尽くされてしまったようにみえる。残るは鉱脈を世界に求めるか、今は海の物とも山の物ともつかないものであっても、将来性の名のもとにビジネスチャンスとして”発見”する他はない。

ポッドキャスティングが人気だそうである。だが、ポッドキャスティングなんてものは、すでにiPodが発売される前からあった。厩戸皇子は10人の言うことを同時に正確に聞き取っていたといわれるが、彼が隋から入手した機械を使ってポッドキャスティングを利用していたことはあまり知られていない。

SNSもインターネットが生まれる前から存在していた。戦国時代、風魔一党はSNSを利用して様々な諜報活動をおこなっていたが、その実際は彼らのボスであった北条一族の滅亡によって永遠に失われた。

ブログもそうである。幕末、各地の志士はブログを利用して己の思想を表明していた。ブログから生まれた大きなうねりはやがて尊皇攘夷から倒幕へ時代を動かし、2ちゃんねるから生まれたええじゃないか運動ともあいまって、日本の夜明けを実現した。

こうした事実は、いずれ井沢元彦の著作などで明らかにされるとおもうが、最初に私がこのことを指摘した証拠としてここに記しておきたい。私がここで述べたいのは、真に新しいものなどはない、これから”発見”されるものはすべて、皆の目の前に存在しているということである。

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2005年07月16日

格差

B000BC8IZ6宇宙戦争 (1953) スペシャル・コレクターズ・エディション
ジーン・バリー, アン・ロビンス, レス・トレメイン, バイロン・ハスキン
パラマウント・ホーム・エンタテインメント・ジャパン 2005-11-09

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格差が広がっている。あらゆる分野で二極化が進みつつある。

特に最近懸念されているのが、マンモスと大腸菌との格差だ。同じ生物でありながら、一方は国際博覧会の目玉として展示され、人々の注目を一身に集める存在。もう一方は、その働きを省みられることもなく、言うに事欠いてばばっちいなどと敬遠される存在。今後両者の差がさらに拡大することになれば、深刻な生物社会不安を引き起こしかねない。

そもそも、マンモスはとうの昔に絶滅した生物である。現在はわずかな死体が冷凍保存されているにすぎない。この保存されたマンモスからDNAを取り出し、クローン技術でふたたびマンモスを復活させようという動きがあるという。とんでもないことである。今の地球上のどこにマンモスの居場所があるというのか。新しい見せ物を生みだしたいという人間のエゴによって、復活させられるマンモスの基本的マンモス権をどう考えるのか。科学者には強く自省を求めたい。

こうした過度のマンモス優遇によって引き起こされる事態はそれだけではない。どんな生物に生まれるかによって、その後の生物生が決定されてしまうならば、どうして生物は努力しようと思うだろうか。どんなにがんばっても親より良い生活ができないという事実は、無力感を生みだす。生物社会階層の固定化により、無力感がひろがれば、働かない大腸菌やビフィズス菌が腸内で増加し、人体にも影響を及ぼしかねない。

かつて恐竜社会では、肉食恐竜と草食恐竜との間に大きな格差が生まれた。一部の肉食恐竜ばかりがもてはやされ、大半の草食恐竜は冷や飯を食うことになった。この格差の拡大が生態系の調和を乱し、それによって恐竜は絶滅したといわれている。

SF作家のH・G・ウェルズも生物の格差という問題には早くから注目しており、細菌の社会的地位向上のために著されたというのが『宇宙戦争』だという説もあるほどだ。

私は競争生物社会というものを否定するものではない。だが競争を導入するならば、その競争は公平なものでなくてはならない。昨今の格差拡大は不公平な競争の中で生じている事態であり、これを放置しておくことは許されない。ましてや、細菌を差別的な文脈で使用するなど以ての外である。マンモスにはマンモスの役割が、大腸菌には大腸菌の役割がある。それぞれがお互いを尊敬しあい、認め合うことのできる生物社会をつくっていかなければならない。

すでにこの世にない生物に思いをはせるのもいいだろう。だが、今この世界でたとえ目立たなくとも生きている生物のことを気にかけていたい。

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2005年06月12日

修正

4894394863ラヴァーズ・ガイド―究極の愛のすべて…愛する人々へのメッセージ
Andrew Stanway
本の友社 2005-05

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無修正でいいのか、いけないのか。大事なところをぼやかしたり、表現を曖昧にすることに合理性はあるのか。むしろ無修正のままにしておくことが、人々の活性化につながるのではないか。

無修正に反対する立場からは、無修正のままで世間に流通されることによる、次世代への悪影響を懸念する声が強い。無修正派がこうした反論を受けいれようとしないのは、様々な事情を考慮してモザイク状の表現に落ち着いてしまえば、やりとげたという快感が十分に得られないからである。

無修正派はできるだけ早く、あれが通過するよろこびを全身で感じたいと願っている。だが修正派は、無修正のものがでまわることは道徳的な退廃をひきおこすと訴える。両者のへだたりは大きい。しかし無修正派は伝家の宝刀という大きな武器をぶらさげており、これをちらつかせては修正派をおどしている。専門家の多くは、修正派は本気でイクつもりなどなく、いざとなればどんな要求にも応じるだろうとしている。

無修正にかんする論議はこれから山場をむかえる。いずれにせよ利用者としては、気持ちのいい結果になることを願ってやまない。

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2005年06月01日

吝嗇学

お金は稼ぐより使うほうが難しいと言われるが、節約というのは単純なようでけっこう難しい。節約をこころがけていても、こころのスキマからつい必要性の薄いものを衝動的に買ってしまって元の木阿弥という経験は誰にでもあると思う。

トータルで節約を達成するためには、長期的な戦略と、なぜ節約するのかという動機が必要だ。これを学問として研究する経済学の新分野として、吝嗇学を提唱したい。吝嗇は、マータイさんの「もったいない」に続く、古くて新しいキーワードだ。落語では、吝嗇な男がよく登場する。こうした日本の文化で、連綿と続いてきた吝嗇の歴史を明らかにするのも吝嗇学の役割である。

ビジネスに生かす吝嗇、これはコストを如何にカットするのかという組織の永遠のテーマに新たな活路を開くものだ。個人であればなおさら、吝嗇という概念は重要になる。資産を守るのに、株や投資信託、外貨預金という方法をとるのも良いが、あくまでそれは遊び金でおこなうもの。最も生活の中心に据えるべきは吝嗇である。

大体、成功している企業や金持ちほど吝嗇である。つまり、吝嗇こそが成功の鍵なのである。ただ吝嗇は人から好かれにくい。吝嗇な男は女にモテないという真理が存在する。如何にしみったれという評判を受けないように、吝嗇という生活態度をつらぬくべきか。ここにこそ、吝嗇で成功する人間と失敗する人間に分かれる重要なポイントがあるのである。

……以上のような内容の本を書いて、人々に吝嗇と節約をすすめながら、自分は印税で大儲けしたいニャー。出版社はサンマーク出版で。目指せ、中谷彰宏。

ところで、うさんくさい自費出版ビジネスも隆盛のご様子。需要と供給のめくるめく関係にござる。

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2005年05月14日

占い

最近、とんと嫌いになったのが占いだ。以前はそれなりに気にかけていたが、今はなるべく見ないようにしている。

昔、占いを大嫌いだと言っていた人がいて、当時は自分にとって良い結果がでた時だけ信じればいいんじゃないか、まあそう毛嫌いしなくても遊びなんだから、と思っていた。だが、今はその人の気持ちがよく分かる。占いは有害だ! と声を大にして言いたい。

細かく見ていけば、占いの中にも統計学、心理学的な側面がある、信頼に足る占いも存在する。だが、現在世間で垂れ流されている占いのほとんどは屑といっていい。

大体、未来のことなんて本当は誰にも分かりゃしない。これだけが真理で、他に真理はない。未来のことをさも見通しているかのように、やれ中日が優勝するだの、やれ北朝鮮からミサイルから飛んでくるだの、やれ日本の財政は破綻するなどと広言する輩は信用しないほうがいい。

諸行無常は救いだ。何も変わらない世の方が救いがない。不確実な時代で、人々が短期的な視点しか持ち得ないような時代だから、希望格差社会などということが信じられやすい。だが金持ちだって転落するときは転落するし、貧乏人だって這い上がる奴はいる。マクロで機能している論理も、ミクロではいくらでも穴がある(これはマクロな視点からの政策で手を抜いてもいいという話ではない)。すき間をすべて埋めてしまえるほどのパワーは世界には存在しない。

話が飛びました。
で、占いがなぜ有害と思うかというと、人生において屑の影響を受けるのは御免被りたいからなんですわ。

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2005年05月13日

調所広郷

有名な日本の借金時計によると、現在日本の借金は718兆円で、さらにその額は膨れあがっている。これはもう返済を考える現実的な数字とはいえず、いつか国による借金の踏み倒しがおこなわれるかもしれない。

江戸時代後期、薩摩藩の家老に調所広郷という人がいた。当時薩摩藩は、前藩主島津重豪の積極財政政策のために500万両の負債をかかえ、にっちもさっちもいかない状態にあった。薩摩藩の税収は年間12万両程度だったから、返済は事実上不可能な状態だ。広郷はこの状況下で、藩の財政改革を一手に任される。

ある日、広郷は借金元の商人たちに、証文を新しいものに書き換えるからという理由で証文を提出させる。広郷は証文を集めると焼却し、商人たちに新しい証文を渡した。その証文にはこう書かれていた。

「今後、藩の債務は無利子で250年かけて返済する」

250年! 事実上の借金踏み倒しといっていいこの手法に、当然のごとく商人たちは激怒したが、広郷は強硬に押し切る。さらに、国産物の増産、専売制の実施、積極的な貿易などの経済改革を実施し、見事、薩摩藩の財政改革を成功させる。

広郷の尽力なくして、幕末期の薩摩藩の躍進はなかったのは間違いない。だが広郷は、中国との密貿易発覚の責任をとって自殺。享年七十三歳。

この話からわかるのは、財政改革とは容易ならぬものということ。さらに、財政の改革者は人々の恨みを買うのが宿命だということ。

世に改革者を気どる人は少なくない。だが本当に改革の名に値する事をなしとげる人は、ほとんどいない。それは本当の改革者が歩む道は、ものすごく辛いからだ。消される危険もあれば、人々の非難中傷罵声を一心に受けなければならない。無名のまま一生を終わることもあるし、歴史に名が残ったとしても汚名とともに語られるだけかもしれない。旨味はまったくない。

まともな感覚の持ち主なら、本当の改革などには決して触れようとはしないだろう。たとえば憲法改正に関与したがる政治家は多いが、もし憲法改正が彼らの言うとおりに難事であれば、それに関わろうとする人間はほとんどいないにちがいない。

地方の薩摩藩ならいざ知らず、現在の日本経済の規模では、広郷がやったような強引な手法をとるのはまず無理だ。となると、いつか行き詰まってデフォルトという結末がどこかで織り込み済みとなっているのだろうか。

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2005年05月02日

消費税

消費税について素朴な疑問がある。現在の国の財政状況を考えると消費税の増税はやむを得ないという理屈はわかる。だが、「食料品などの衣食住にかかわる生活必需品は非課税にする」という方式が、真剣に検討されないのはなぜなのか。

どの商品を非課税にするか、線引きが難しい。事務処理が煩雑になり、簡素という消費税の利点が損なわれる。こういったことを政府税調は主張する。だが、反論としては弱い。要するに、調整するのが面倒だからできない、と言っているにすぎない。怠慢と無能を表明しているだけのことだ。これだけの税源が必要だから消費税はこれだけ上げないと、といった程度の算盤勘定ならば誰にでもできる。

次期首相が真っ先に行うのが消費税の増税であることは、既定の路線になっている。総額表示という外堀も埋められた。だがこのままなし崩し的に、豆腐にも、日産シーマにも同じ10%以上の税を課するのか。食料品は生命の存続にかかわるもので、単なる商品ではない。

消費税引き上げ反対を叫ぶばかりで、じゃあ財源はどうするの、という問いには満足な答えを用意できない野党にもうんざりだ。少しは勝算のある戦いをしてほしい。

本来ならば、憲法改正論議などやっている場合ではない。愛国心や自衛隊では、膨大な財政赤字は解消できない。支出を抑えて、景気を回復させるという地道な取り組みを十分におこなわず、結党50年という国民には何の関係もない記念イベントの一環として、憲法改正という目立つことばかりに力を入れる。エネルギーを注ぐ場所がどう考えても間違っている。

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2005年04月24日

自称

新聞の社会面に掲載される記事に、「自称何々」という表記を見かけることがある。事件の容疑者の属性として記されることが多いが、この「自称」という表記にする基準はどのあたりにあるのだろう。

客観的に見れば限りなく無職に近い状態なのに、あくまで特定の職業であると言い張っている。「俺は作家だ」と言っているが、「どんな本、出したの?」と訊くと口ごもるといった、なんとなく怪しい感じがある。以上のような場合に、適用されるようなイメージがある。まだ確認がとれていないときに、暫定措置として警察発表では「自称」とされるのだろうか。

自称というと、うさんくさい臭いがプンプンするが、元々クリエイティブな仕事を生業とする職業人が売れていない状態にある時は、堂々と自称するしかないというのも事実だろう。むろん、犯罪を起こしてはいけないが。

また、「あなたの仕事は?」と訊かれて、「会社員やってます」としか答えられない人というのも、今の時代いくらなんでもそれじゃいかんでしょ感にあふれている。

今後、さらに激変すると予想される労働環境の中では、職業を自称する人々がますます増加すると思われる。それはたとえば、次のような自称だ。自称タレント、自称経営者、自称画家、自称グラビアアイドル、自称大学教授、自称デザイナー、自称プロレスラー、自称自衛隊員、自称某国工作員、自称代議士、自称弁護士、自称僧侶、自称変質者、自称学生、自称結婚詐欺師、自称経営コンサルタント、自称赤穂浪士、自称革命戦士、自称ファイナンシャルプランナー、自称宗教指導者、自称ならずもの、自称名乗るほどの者ではない、自称大阪城城主(上沼恵美子か?)、自称四年富士川の戦い、自称白馬の王子様、自称金星人、自称ゾンビ。

自称に貴賤なし。胸を張って、自称しよう。

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2005年04月03日

カラフルでいこう

4797328207プレゼンテーションの極意
川崎 和男
ソフトバンククリエイティブ 2005-06-29

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昨日のエントリーの関連で。

僕自身、色彩心理にはけっこう気をつかっている。以前は黒色を気にいっていて、服や身の回りの品を黒中心にしたこともあった。だが、家具を黒に統一して鬱病になったという人の話を聞いてから、あまり黒を選ばなくなった。自分が精神的に落ち込みやすいことを自覚しているので、なるべく明るい色を選び、周辺環境をカラフルにするようにしたのだ。

もちろん僕は男なので、カラフルといっても限界はある。周りからゲイと間違われる恐れもある。だが、明るい色を身につけたり、周りに配置することで、地の底に吸い込まれるような極端な気分の落ち込みはなくなった。感覚の話なので、正確に表現するのは難しいが。

美輪明宏が黒は死の色、と言うのを聞いたことがある。運気が低下するらしい。それはともかく、黒は色合わせが楽なのでつい選びがちだが、あまりそれに頼ると、色彩センスが育たないという危険はあるかもしれない。川崎和男は、自分の嫌いな色の下着を身につけてみろ、と言っていた。

カラフルでいきましょう。暗い世の中だから。

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2005年03月23日

made in japan

中日新聞には、名古屋の百貨店の広告がよく掲載される。その中で、三越の広告だけは他の百貨店とは少しちがう点がある。商品にカッコをつけて、生産国が示されているのだ。

三越の一般的なイメージは、高級感があって、価格が高いというところだろうか。年配の人からの支持が高いという印象もある。そうした百貨店としてのブランドイメージや客層から、生産国を明示するという判断がなされているのだろう。まだまだ高年齢層を中心に、「日本製」に対する信頼というのは強いようだ。

海外への工場移転は、産業の空洞化という問題を引き起こしている。だが、ここにきてその流れに変化の兆しもみられる。その製品が消費される場所で、生産もおこなうという考え方が広まりつつあるからだ。テロや海賊といったリスクが高まれば、身代金を含めたコストは上昇し、必ずしも海外生産が割に合わなくなることも起こりえるだろう。

だが今後、外国人労働者を大量に受けいれることになれば、日本の工場で生産される製品の大半が、日本人以外の労働者の手によってうみだされることになる。また現在でも、製品がうみだされる過程は高度に複雑化している。だから同じ日本製とはいっても、時代によってその背景は一様でないと言える。

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2005年03月08日

難しい問題について

ネットを見ていると、人を感情的にさせやすいイシューが三つあることに気づく。

一つは、労働にかんしての話題。これまでになかった不安定雇用の広がりが、人々を不安にさせている。労働形態の多様化などという言葉ではくくれぬほどの格差が、深刻な対立を生んでいる。最初は、それぞれの立場から建設的な議論をおこなおうとする努力がなされるが、やがて問題の大きさに圧倒され、その無力感から弱者同士でネット上の不毛な殴り合いが始まる。

これは、マクロな問題とミクロな問題を一緒くたに議論してしまうことから発生する問題だ。そのふたつは分けて考える必要がある。雇用や社会保障の経済政策と個人の働き方にかんする問題は、密接に関わりあってはいるが、論議するときは区別されなければならない。行政の適切な政策によって、前者を改善させることで、後者もいくらか改善させることができる。だが後者を解決することは、前者の改善よりも難しい。問題が個別的で、多岐にわたるからだ。実際のところ、民間の有志によって地道に改善していくしかないと思う。行政が後者の問題にかんしてできることは、その有志の真偽を見きわめて資金援助することぐらいではないか。

二つ目は、北朝鮮や韓国などの隣国をめぐる問題。もう右とか左とかいう属性を背負って論争してる時代ではない。複雑な問題には、複雑さをうけとめられる脳で対抗する必要がある。そもそも隣国との関係は、どちらかの国が消滅しないかぎり、すっきり解決なんてありえない。

だが、もろにヒステリックな反応を生じやすい問題でもある。周辺を核武装国に囲まれる状況は、核をもたないと決めた日本には、今後これまで以上の心理的プレッシャーとしてのしかかってくるはずだ。試練の時が当分つづく。

三つ目は、凶悪犯罪にかんして。大量の負け組を発生させる現在の社会システムは、勝ち組に対しての強烈な憎悪も生みだす。勝ち組といってもそれは必ずしも富裕層とは限らない。一昔前だったら当たり前にあったような、幸せな家庭生活をいとなんでいる家族に対しての憎悪が社会に沈殿し始めている。これは労働にかんしてのイシューともリンクする。

過激な排除の論理が横行しやすいが、それは疑心暗鬼が悪循環を招き寄せる結果に終わるだろう。一人でも多くの人に社会参加の機会をうながすために、そういった場を地域で用意することが大切だ。

これらのイシューに、突飛な意見や極論は適切でない。誰でも思いつくような凡庸な方法で、地道に取り組んでいくことでしか解決の光明に近づくことはできない。ネットがエネルギーを浪費する場でなく、エネルギーを注入する場であることを願う。

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2005年03月06日

もしもフジテレビが買えたなら

何しよっかな~。まず、滝川クリステルを部屋に呼ぶか。そんな権限あるのかわかりませんけど。

少しは経営について考えんといかんな。そうだなあ、今までの膨大な放送コンテンツを有効に使おうか。ブロードバンド使って、バンバン配信しちゃうのだ。会員制にしても、人気のあるコンテンツならお金払ってくれるんじゃないかな。僕はドリフ大爆笑のもしものコーナーが観たいな。

ここに、トレソーラという実例がある。TBS、フジテレビ、テレビ朝日の民放3社が有する番組コンテンツをブロードバンド配信するために設立された会社だ。だがこの会社、2002年から事業を開始したもののどうも動きが緩慢だ。番組の配信も期間限定で、実験的段階にとどまっている。

推測するに、採算の見込みが立たないということか。2002年9月の配信を見てみる。「オレたちひょうきん族」や「高校教師」「トリック」など配信する番組のセレクションは悪くないが、月額1,000円というのに引いてしまう。見放題で1,000円というより、限定されたコンテンツを数百円で見るというかたちでないと買おうとする人は増えないのではないか。と思ったらその点は、2004年8月配信分ではいくらか修正されて、単品で買えたりもできるようだ。基本料金は必要のようだが。

結論を言えば、利用する気にならん。利用料金が高かったり、専用機器やプレイヤーが必要だったり。やる気あんのか。面倒くさいのは誰もやらんぞ。著作権保護はわかるけどさ。

それでも今後のテレビ番組の流れとしては、金のとれるコンテンツは有料化、それほどでもないコンテンツは無料でという差別化の方向に進んでいくのだろうか。話はちがうが、携帯電話の普及は便利さをもたらしたが、その利用料金は各自で負担しなければならなくなった。それまでは、公衆電話を利用すれば必要なかった分である。郵政民営化も便利にはなるが、これまでとはちがうかたちの負担が要求されるだろう。テレビの有料化もチャンネルの選択肢が増えるなどの点で便利にはなるが、そのかわりちゃんとお金は払ってねということになる。

便利さの向上とそれに比例しての負担の上昇。貧乏人には酷な世の中だ。フジテレビを買うという豪勢な話のはずがやっぱり地金が出ちまったぜ、ベイベ。

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2005年02月26日

ゲームは万葉集を生み出せるか

知名度はどの程度か知らないが、文化庁メディア芸術祭というものがある。先端的なクオリティの高い作品が毎年入賞している。

平成16年度エンターテイメント部門の大賞は「まわるメイドインワリオ」というゲームだ。優秀賞4作のうち、3作もゲームだ。

ゲームがすでにひとつの文化であることに異論のある人はいないと思う。日本における重要な産業のひとつであることも認知されているだろう。成長産業かどうかは微妙なところだが。

だがゲームはいまだに最もバッシングされやすい娯楽でもある。科学的にはまったく根拠のないゲーム脳などという珍説が、少なからぬ人々に受けいれられてしまう環境がある。数ヶ月前には携帯ゲーム機に人々が殺到するのをゲーム市場が熱いなどと持ち上げられていたのに、事件を起こした少年の日常にゲームがあっただけですぐさま悪役に転落する。このゲームというものへの評価の不安定さは何なのだろう。

問題は、ゲームが主に少年を対象に消費されることから発生する。大人のゲーム依存は本人の自己責任の話だからそれほど問題にはならないが、少年期はゲームとの距離をうまくとれないことから問題が起こる。それは家庭教育にゆだねられるべきものだが、肝心のその家庭教育の能力が低下しつつあることが問題を悪化させている。

たしかに、ゲームはうまくていっていない日常から逃避する手段として魅力的すぎるきらいはある。ある種の中毒性もある。今後、オンラインゲームというものが広がっていけば、そのつきあい方はこれまでのゲーム以上に難しくなるかもしれない。

少年期のゲームとのつきあい方でいえば、平凡な結論になるが、ゲーム以外の体験も充実させることが問題の解消につながっていくのだろう。

かつて漫画が大人たちから非常に嫌われた時代があった。今はその性的描写が裁判沙汰になることはあるにせよ、漫画自体の評価は安定したようにみえる。ゲームは本や漫画と異なり、インタラクティブなメディアだ。Webもそうだが、インタラクティブなメディアはまだ文化としては始まったばかりで、その可能性を十分に発揮しているとはいえない。そうしたインタラクティブメディアの中で、人の心を揺さぶり、感動させるものが生みだされていくことでゲームへの評価も変わっていくのかもしれない。

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2005年02月20日

危機言語

4750316016消滅の危機に瀕した世界の言語―ことばと文化の多様性を守るために (明石ライブラリー)
宮岡 伯人 崎山 理 渡辺 己
明石書店 2002-07

by G-Tools

地球上の言語が、次々と消えつつあるという。

「危機言語」小委員会ホームページ

ある専門家は次のような予測を立てています:まず、21世紀のうちに、今話されている言語のうち20~50%が完全に話し手をなくして消滅します。残る40~75%の言語についても、しだいに子どもたちに話されなくなって危機言語の状態に陥る可能性があります。この予測によれば、今世紀末に「安泰」な言語は現在話されているうちのわずか5~10%、数にして300~600程度でしかないということになります。

地球上の生物や環境が危機に瀕していることはよく知られているが、言語もまた危機なのだという。グローバル化の文化的な影響というのは、なかなか目に見えないので問題にされにくい。だがそれは、ローキックのように徐々に効いてくる。

世界をすべて英語に統一してしまえば、それはそれで便利な世界が生まれるのだろう。だが文化の多様性を失えば、知的生命体としての人間の進化もそこで停止するにちがいない。

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2005年02月08日

無料新聞

最近はいろいろな場所で、就職情報や地域情報が掲載されたフリーペーパーが並んでいるのをよく見かける。グルメや美容についての情報やお得なクーポン券を無料で手に入れることができる。

こうしたフリーペーパーは広告収入によって無料配布を実現している。だが海外では無料新聞なるものまであるらしい。

僕が無料新聞というのを初めて知ったのは、フランスの高級紙ル・モンドが売り上げを急速に減少させているという内容の新聞記事を読んだ時だった。売り上げ減少の理由として、インターネットの普及と無料新聞の広まりが挙げられていた。無料新聞って何? そこで調べてみると、これが非常に興味深かった。

有名な無料新聞のひとつ、メトロのサイト。その概要を見ると、世界17ヵ国63都市で刊行されており、アジアでは韓国、香港で刊行されている。地下鉄やバスの停車場に置かれ、通勤するビジネスマンなどが手に取っていく。

試しに同サイトから実際の紙面をダウンロードしてみた。ぺらぺらの紙面を想像していたが、思いの外、面数は多い。記事は事実のみを淡々と伝えている。広告が多く、深い内容ではないが、通勤時に読むにはちょうどいい。

最近は無料新聞同士の競争が激化しているという。無料新聞の伸びにおされて、既存の新聞各社は苦戦が伝えられる。この状況に既存新聞社は様々な模索を始めている。

さて、この無料新聞が日本に上陸することはあるのか。実際、無料新聞が始まるとかなりのインパクトがあるにちがいない。だが日本には個別宅配制度がある。この制度のおかげで、既存新聞社はじりじり読者数を減らしているとはいえ、いまだその力を維持している。だが若年層の新聞離れは、新聞社にとって深刻な問題になりつつある。おそらく日本で無料新聞が刊行されれば、若い世代は一気にそちらに流れるだろう。

個別宅配制度は無料新聞の登場を阻み、新聞社をこれからもしばらくの間は守ってくれる。海外の新聞社のような憂き目を味わうこともない。だがそれ故に、日本の新聞社は新しいメディア時代から取り残されるリスクも背負っている。

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2005年02月04日

北名古屋と南セントレア

東海地方に住んでいる方はご存じだろうが、南セントレア市の登場には前兆があった。昨年11月にその名が決定された北名古屋市である(リンク先では”決定”ではなく”確認”となっている)。北名古屋市は、愛知県西春日井郡の師勝町と西春町の合併によって誕生する新しい市の名前だ。

北名古屋市が南セントレア市とちがうのは、一般公募された名称のトップが名北なので、広く解釈すれば、住民の意向をまったく無視したというかたちにはなっていない点だ。だがリンク先の選定理由を読んでも、釈然としない思いは残る。年長者は伝統を守ることにうるさい存在だと思っていたが、今はどうやら違うらしい。意地はあっても誇りはない、そんな印象の「北名古屋」だ。

合併によって誕生した変な地名は、今や全国各地にある。これを集めたブログなんかもできそうだ。

ところで、合併するのは自治体だけではない。

■新銀行名に「東京」残す 三菱東京・UFJ波風嫌う (河北新報)

新銀行の名称をめぐっては、仮称では長すぎるとして「東京」を外し「三菱UFJ銀行」と変更する案が浮上。しかし旧東京銀行出身者らへの配慮などから変更に慎重な意見も根強く、波風を立てないことを優先した形で決着した。月内にも発表する。

今までさんざん冷遇されてきた旧東京銀行出身者にとってみれば、今さら何が配慮だという感じだと思うが、ここで述べたいのはそのことではない。

なぜ、合併によっておかしな自治体の名前が生まれるのか? 「波風を立てない」という言葉にすべてが凝縮されている。議論を尽くす? なんですか、それ。 

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2005年01月19日

つくば万博・その弐

電力館のバッジ電力館のバッジ。これからも原子力と仲良くしてね。


日本IBM館のバッジ日本IBM館のバッジ。○△□を組み合わせた外観のパビリオン。


くるま館のバッジくるま館のバッジ。この車、どこから乗るんだろう? そろそろこういうデザインの車、出してくれよ。


観覧車の記念メダル箱に「泉陽興業株式会社」と記されている。ここの製品みたい。あまり覚えていないのだけど、観覧車に乗った記念に買ったのかな。


宇宙飛行士認定証やバッジは、入場者に無料で配られたもの。記念品やおみやげを買う経済的余裕のない少年には、ありがたいことでした。

あんまり懐かしんでいると、「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲」に出てくるオトナみたいになってしまいそう。

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2005年01月18日

つくば万博・その壱

万博のエントリーを書いたときに、つくば万博の記念品が出てきたのでいくつか画像をアップしてみる。

宇宙飛行士認定証

NECのC&Cシアターは超人気のパビリオン。暑い盛りに長時間並ばされる。

入場者は宇宙飛行士となって、大宇宙を航行する。途中、宇宙船の運命を左右する選択を迫られる。この選択は、入場者の多数意見によって決定する。それによってストーリーは分岐していく。

終盤に重要と思われる選択肢があらわれた。
僕は今でも正しい選択をしたと信じているが、その僕の意見は少数派だった。多数派の選択は僕の意見と真っ向から対立するものであったが、したがう他はない。宇宙船は地球に無事帰還できるのか、入場者は固唾をのんで行方を見守った。

宇宙船は大気圏で燃え尽きた…。

多数派の誤った選択のために、僕は宇宙の塵とあいなった。
民主主義はきびしい。

今回と次回のエントリーは、科学万博blogに触発されて書きました。

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2005年01月11日

ネットワーク戦略の敗北

■IT産業の潮目が読めぬ日本勢 モノづくりの強さ過信を危惧す (Sankei Web)

ただ私が危惧(きぐ)するのは、モノづくりの強みを過信し、そこにしか生き場所がないと自己規定するあまりに「こちら側」に没頭する日本企業が、米国離れを引き起こしていることだ。違う方向に関心が向かっている米国の現在を「われ関せず」と理解しようともしていないことである。

日本でITという言葉がもてはやされていた頃、ソニーはその時代のトップランナーとしてハード産業からソフト産業へ立ち位置を急速にシフトさせていた。出井CEOのネット社会の到来を見越した長期戦略に注目が集まり、新しいことに挑戦するソニーらしさをいかんなく発揮していた。

だが、ソフト重視の戦略は投資に見合うような収益を生みだせず、ITバブルの崩壊に巻き込まれるようにしてそのようなソニーの方針は急速に色褪せていく。ソニーだけでなく、松下電器や東芝のような日本を代表する企業も次々と苦境に追い込まれた。

この苦境を打開するために、家電業界は徹底した生産性の向上をはかり、そのコアとなる理念が"ものづくり大国"の復活だった。松下電器はその戦略にいち早く取り組み、少ない売り上げでも利益をだせる体質に生まれ変わった代表的な企業といえる。

逆にソニーはソフト重視の方針にこだわりすぎて、他の家電企業に比べ、出遅れてしまう。おそらく、ソニーの社内でも出井CEOの方針に危惧を抱いていた人も少なからずいたと思われるが、ソニーショックとよばれる株価急落のような事態が起こるまで、そうしたハード重視派というべき人たちの声は広がらなかったのだろう。

それにしてもソニーのソフト戦略が残したものが、スパイダーマン収入だけというのではさびしい話だ。ソフト戦略の要は、ネットワークにあったはずだ。インターネットが生みだす新しい文化、それが単なる幻想だとは思いたくないし、事実として正しくない。ブロードバンドが多くの家庭に引かれることが重要なのではない。その環境をいかに使うかが問題なのだ。ネットワークの新しい使い方をソニーのような企業が提案しなくて誰がやるというのか。

ソニーのハード回帰は短期的には正しい戦略だ。だが、いまさらVAIOを充実させたところでたかが知れてる、とも思う。ネットワーク端末として、CLIEに力を入れてくれとも思う。

そうは言っても、実のところソニーだけの問題ではないのだろう。日本のITが、どんどん世界から取り残されていくのは。

また日本のハード重視戦略は、為替変動の影響をうけやすいというリスクを常に抱え続けるということでもある。

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2005年01月06日

親不知

正式には第三大臼歯というらしいが、昨年から"親不知"とよばれる歯の治療をしている。最も奥に生える歯で、人によってはまったく生えない人もいるらしい。

昨年、ものを噛むたびに歯ぐきが痛むので歯周病かと思って診てもらったところ、親不知が向かいの歯ぐきに当たっているからと言われた。また、別の親不知には虫歯が見つかった。そこで、問題のある親不知を順次抜いていくことになった。

江戸時代に日本人の顔は大きく変化したといわれている。幕末で写真の残っている土方歳三の顔などを思い浮かべてもらうといいが、ああいった細面の顔は江戸時代以降の顔といっていい。それ以前はもっとごっつい、縄文系の近藤勇顔が主流だった。

顔が細くなることによって、親不知は異常な生え方をしたりして問題を引き起こすようになった。僕の親不知も横に生えているので、抜くのが難しいらしい。

要するに何が言いたいかというと、筆者の顔が土方歳三に似ているということだ。士道にあるまじき嘘である。

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2004年12月24日

サンタさんからのプレゼント

サンタクロースは存在するか? 
自分がサンタクロースと名乗れば、誰でもサンタクロースになれるのか?
生々しい商業主義の現実から、子どものこころを守るために生みだされた美しい幻影か?

でも、今になって僕は思うのだ。子どもの頃にサンタさんからもらったプレゼントはとても貴重な物だったと。

貴重な物、というのは言葉通りの意味だ。愛と解釈してもらってかまわない。

だが、経済的な意味でもそうだった。僕があの頃もらったおもちゃが、今ではYahoo!オークションで信じられないほどの高値をつけている。でも悲しいのは子どもの頃にそういったことを知らなかったので、せっかくもらったものを乱暴に扱い、あげくに捨ててしまったことだ。本当に大切なものは失ってみてからわかるってことに気づかないくらいに僕は子どもだった。

サンタさん、ごめんなさい。僕は悪い子でした。せっかくの闘将ダイモス デラックス超合金を……。10万円を……。

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2004年12月22日

無能の国

経済社会総合研究所(Economic and Social Research Institute : ESRI)という内閣府のシンクタンクがある。その試論(Discussion Paper)の中に興味深い内容があった。

■日本の実質経済成長率は、なぜ1970年代に屈折したのか(要旨)

試論は次のように結論づけている。

要するに、70年代以降、成長率を屈折させたものは石油ショックや技術格差の縮小のような外的な要因ではなく、外的なショックに対して日本経済が反応する力の弱くなったことにある。ただし、なぜそうなったかは、本稿の分析からでは明らかではない。

僕自身今まで、1970年代の経済停滞は石油ショックによるものと思っていた。だが経済停滞の理由が内的要因にあるのならば、日本は30年以上前から何をやってきたのかということになる。すでに30年前の時点で日本は変わる必要があったにもかかわらず、戦略的なシステムの更新は行われなかった。

会社でも時代の変化に対応できなければ、当然のごとく淘汰される。個人も社会の変化に適応できない人は、給料が減り、最後には失業する。会社や個人がそうであるならば、30年以上にわたって変われない国というのも”無能”の烙印を甘受するしかない。

僕は1970年代に生まれた。だから日本が働き盛りだった時代を知らない。僕が生まれた時、日本は仕事もできないくせに大きな顔をしている管理職になり始めていた。そうした人間が最も熱心なのは己の保身だ。十分な退職金の確保にきゅうきゅうとし、失敗は部下におしつける。そしてさっさと退場、後は野となれだ。

30年間何もしてこなかったつけは大きい。脳も筋肉も使わなければ衰えるばかりだが、今まで使ってこなかった脳や筋肉を急に使わなければならないのだから大変だ。まともに立てるようになるまで、10年は覚悟する必要がある。トレーニングの仕方を間違えば、さらに危険な状態に追い込まれるだろう。そもそも、立ち上がる意欲がなければ話にならないが。

我が国には莫大な金融資産がある、と豪語する人がいる。だが、この30年間で得られたものはそれだけではない。積み上げられた"不信"という名の負債が、改革の大きな障害となって立ちふさがっている。

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2004年12月20日

うさんくさい人ウォッチャー

うさんくさい人を見かけるととても興味をひかれる。だからといってかかわりたくはないので、横目でその様子をそっと観察する。営業トークは見事だが、このうさんくさい容姿では客を引かせてしまうのではないのか、などと考えながら。

でもそういう、うさんくさい外見をもった人が意外とやりてだったりするので、必ずしも仕事上そのうさんくささがマイナスにばかり働いているわけではないようだ。相手は最初こそ警戒するが、そこで人並みの純粋さを示すことで相手を安心させることができれば、緊張から解放された安らぎもともなって、普通の人が交渉する以上の信頼を勝ち取ることができるのかもしれない。

また、うさんくさいのがひとつの魅力になっている人もいるだろう。たとえば、うさんくさい魅力の有名人といったら誰だろうか。江原啓之、細木数子、デューク更家、Dr.コパといった面々が頭に浮かぶ。これらの人たちへの高い需要は悩み多き日本の人々をあらわしていると思うが、それ以上に彼ら自身のうさんくさい味わいが気になる。彼らの主張に興味はないが、彼らの個性には興味がある。死霊との交信よりも、うさんくさい人ウォッチャーとして彼らを観察するほうが救われるのでは?

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2004年12月09日

個人消費

「日本の実質GDPに占める輸出の割合は10%程度」というのを初めて知った。日本は輸出で食っている国と思っていたので、思いのほか少ないのに驚いた。こんなのは経済に詳しい人なら常識なんだろうけど。

個人消費の占める割合は50%くらい。
中国経済好調の影響で大企業を中心に景気回復といった話や、リストラによって無駄をなくした経営システムをつくりあげたので売上がいまいちでも利益を出すことができるといった話はよく聞く。これらはわりと実感として理解できる。だが、個人消費についてはよくもってるな~という感じがする。これは僕が地方に住んでいるからかもしれないが、「個人消費は堅調に推移している」といった発表には違和感がある。どう見ても売れてないのだ。

輸出大国から内需拡大へ、これはかつて何度となく聞かされた言葉だ。だが、内需拡大は失敗の連続だった。地方では、公共工事に依存する体質から脱却する試みを今まで何度か試みてきたが、いずれも実を結ばなかった。新産業も生まれない。

来年からは増税が待っている。財政赤字はご存知のように絶望的。年金、福祉予算は縮小傾向。こんな状況で、よく堅調な個人消費が続いているものだと思う。もっと大きく底割れしても僕は驚かないだろう。

個人消費がなんとか持ちこたえている理由はなんだろうか。20%存在するといわれる富裕層のおかげか。だが、金持ちほどケチだったりするし。それよりも、生活レベルは急には下げられないものだからだろうか。それとも、デフレが続いている今のうちに買える物は買っておこうという生活の知恵だからだろうか。インフレになったり、消費税二桁になる前に長く使えそうな耐久消費財、たとえば液晶テレビを買っておこうとか。

いろいろ考えるがいまいちしっくりくるものはない。いろいろな要因が複雑にからみあった結果が、個人消費なのか。

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2004年12月08日

ペさんの憂鬱

ブームというものは、その渦の中に入って熱狂している人とそうでない人の間に深い河をつくる。最近の韓国スターへの熱狂は、大半の男性には理解しがたい現象だろう。同性の女性の中にも、そのムーブメントに冷ややかな目を送る人も少なくないのでないか。

「ヨン様」ブームは何を意味しているのか。それを考えてみようと思ったが、こういった事柄にかんしていい加減な説を並べるのは簡単だが、真に的を射た分析というのは意外と難しいものだ。

まず思いつくのは、熱狂する中高年女性がとにかくお金を持っているということだ。低迷する日本の個人消費において、最も消費意欲が高い層だということは言えるだろう。そういった層に対しての、供給側からのアピールは最も熱意を帯びたものになる。だから、そこに消費の小さな芽が生まれるのを発見した供給側によって、韓流ブームというものが人為的につくりだされていった側面もある。

だが、人為的にブームをつくりだすというのは、そこに確かな欲望が存在していなければ絵に描いた餅にすぎない。つまり当然のことながら、ペさんという人物にそれだけの魅力があるのも間違いない。

その魅力をファンでもなんでもない男の僕が理解できるのか。試しにインタビューを読んでみる。

■「韓流ブームの主役」ペ・ヨンジュン朝鮮日報単独インタビュー (朝鮮日報)

「日本に『冬のソナタ』の舞台を真似た村まで登場したというが」と言うインタビュアーに対して、ペさん「私も朝鮮日報で読んだ。各務原という小さな村だとか…。本当に幸せな気持ちになった。ありがたいことだし」

あのう、各務原は一応、15万人の人間が住む"市"なんですけど。自衛隊基地もあるでよ。などという細かいツッコミは控えます。僕も論硯洞、よく知らないし。

気になったのは、次の部分。
インタビュアーの「『冬のソナタ』に対する日本の反応は予想したか。なぜ、日本人にあれほどまでのに好評を博したと思うか」という質問に、ペさんは「まったく予想もしなかった。このドラマは韓国でも、その他のアジア地域でも人気があった。しかし、その中でも日本で旋風的な人気を集めたのは、あの方たちを取り巻く環境が寂しく、索莫としていたためではないだろうか。昔のものに対する気持ちを改めて感じたがっていたようだ。事実、世の中は寂しすぎるではないか」 と答え、「今年一年、世界的スターになった。この上ない愛情ももらった。それでも寂しいのか」という質問には、「本当に多大な愛情をもらってはいるが…(沈黙)、正直な話、寂しい。あまりにも多くのものを背負わなければならない。寂しさを楽しもうとも、なくしてみようともしてみたが、なかなか上手くできなかった」 と答えている。

恋人との破局報道などもあったが、ペさんの言葉にはペシミスティックな雰囲気が漂っている。スターである自分とファンのどちらもが共通して抱えている、心の隙間を正直に吐露している。聡明な人という印象も受ける。

韓国ドラマの表現は、日本では一時代前のものとされ、ノスタルジアが人気の秘密といわれる。また、純愛ものが流行る風潮をくだらないと一蹴する傾向もある。

だが、このインタビューを読めばペさんがなぜ今これほど人気があるのかわかるような気がする。懐古というよりも、彼はやはり21世紀にふさわしいスターなのだ。不毛な人生、なぜだかわからないがあまりにつまらない毎日、終わりなき日常、救われない世界。そういった愛のなくなった世界に誕生したスターなのだ。彼が背負っているものは、大げさではなく世界の絶望そのものだ。むなしい時代が純愛ブームをつくりだしている。そして日本でのヨン様人気に最も直接的に関係している事実は、日韓の経済低迷だろう。

絶望してるけど懸命に笑う、それがヨン様の笑顔。

映像学を学び、映画スタッフから俳優にというプロフィールも興味深い。彼の本領はドラマより映画にあるのかもしれない。

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2004年12月02日

年賀状

早いもので、もう年末。年賀状印刷のためにプリンターを買う人が増える時期である。

今年の年賀葉書の発行枚数は約43億5千万枚(昨年は約44億6千万枚)とのこと。去年より少し減ったものの、まだまだ年賀状の慣習は廃れていないようだ。

携帯電話やパソコンの普及で、携帯メールやEメールで年初の挨拶をすます人がもっと増えても不思議ではないと思うが、そういう方向には世の中は進んでいない。パソコンの導入は年賀状のEメール化には行かず、プリンター印刷による年賀状を増やすことになった。

これはなぜだろう。まだまだEメールですますことに対しての社会のコンセンサスができていないので、仕事上での相手などは特に、失礼にあたるという意識が先に立つからだろう。また、味気ない、心がこもってない、事務的に過ぎるという感じがあるためだと思われる。

また、携帯メールは元日近くに使用すると、ネットワークの混雑を生みだすために届きにくいといった使いにくさもあろうか。パソコンでのEメールにしても、HTMLメールや添付ファイルはウイルスの問題もあり、敬遠される傾向にあるので使いにくい。

技術が人の生活を変化させてきたのは事実だが、「習慣」というものの持つ力の大きさを思う。

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2004年11月27日

コンプレックス

包茎であることを苦にしている男性はどれぐらいいるのだろう。雑誌の広告には必ずといっていいほど、包茎手術を勧める広告が載っている。不潔になるとか女の子が臭いを嫌がるとかいろいろ言われるけど、実際のところどうなんだろう。そんなに深刻なことなのか?

というわけで、以下の記事を読んだのだが…

■男性よ、包皮を取り戻そう――米国に登場した各種の包皮回復器具 (WIRES NEWS)

セラピーなどあてにしてはいけない。大人の玩具やロールプレイングも忘れよう。若者よ、そして若くないあなたも、包皮を形成しよう。米国では、割礼を施された男性の割合が約63%(世界で最も高い水準)に達しており、そうした男性は、重要な感覚的な能力を奪われているのだと、割礼に反対するグループは主張する。

この記事ではアメリカ人男性の63パーセントが割礼をしているという事実にも驚かされるが、包皮を回復したいという男性が少なからずいることに意外さがある。

それに包皮があったほうが敏感で、気持ちいいみたいだ。次のような記述がある。

「亀頭が露出している場合は皮膚が厚くなるため、保護されている亀頭の方が敏感だとミロス氏は話す。さらに包皮には4万もの神経終末が存在し、セックスでの感度が高くなるという。」

あの時にかんしては、男性より女性の方が何倍も気持ちいいとされている。だが、もしこの博士の言うことが正しければ、包皮のない男性はせっかくの気持ちよさを失っていることになる。これでは女性との快感の差は開くばかりだ。YouはShock! 包皮を取り戻せ!

でも、自分がコンプレックスに感じていることって、うまく利用すれば人生を前進させるエンジンになるってこと確かにあるね。

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2004年11月26日

無買日

4773627018グローバル経済と現代奴隷制
Kevin Bales 大和田 英子
凱風社 2002-10

by G-Tools

明日11月27日はドラクエの新作が発売される日ですが、ここで紹介するのはそれとは無関係な無買日というイベントについてです。

無買日(Buy nothing day)とは、1年に1回、本当に必要なもの以外は何も買わない一日を過ごしてみようという日です。1992年、カナダのアーティストから始まった運動で、大量生産、大量消費を続ける先進国の生活を見直すことを目的としています。

いくつか複雑な要因はあるものの、イラク戦争が石油の支配権を巡る争いであることは明白な事実です。日本の電力供給に大きな位置を占める原子力発電は、膨大な使用済み核燃料を発生させ、その処理には19兆円が必要とされています。こうしたエネルギーによって引き起こされる事態は、今までのような大量生産、大量消費の生活を先進国の人間が続ける限り、悪化する一方でしょう。

BRICsと呼ばれるブラジル・ロシア・インド・中国の将来的な経済的発展は、地球の限られた資源を人類が今以上に激しく奪いあう未来を意味します。環境との調和が必要ですが、資源を最も浪費する国アメリカは相変わらず、環境問題よりも産業界の声を優先させています。

格差の問題も深刻です。巨大資本による発展途上国に対する搾取は、奴隷制そのものです。きわめて厳しい労働条件に置かれた子供たちの手によってつくられたサッカーボールやスニーカーを使用して、私たちは生活しています。

言うまでもなく、こうした問題を解決するのは容易ではありません。大量生産、大量消費というシステムは明らかに行き詰まっているものの、一旦確立してしまったシステムを変えることは非常に困難です。しかし今のままでは、先進国の人間もこのシステムの奴隷として、人間らしい生活を奪われたまま一生を終えることになります。

無買日は日常の習慣に対するささやかなレジスタンスです。携帯電話を、使いもしない機能のために機種変更する必要なんてないよな。年末商戦だからって、何か買わなきゃいけないってわけじゃないわ。たまにはそんなふうに考えて、お金のかからない生活をしてみてはいかがでしょうか。

ムバイデージャパンネットワーク

無買日運動の理念に共感したので紹介しました。しかし、どうやら来年度から大増税が待っているみたい。これからはしたくなくても無買を強いられるのかも。とほほ。

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2004年11月21日

メトロポリスへ

■キヤノン:国内組み立てラインを無人化 07年末までに (毎日新聞)

キヤノンは22日、07年末までに国内生産額(約1兆円)の約4分の1に相当する国内工場の組み立てラインを完全自動化・無人化する計画を明らかにした。コスト削減と生産性向上が目的。自動化設備は自社で開発・製造し、技術の海外流出も防ぐ。

手塚治虫の『メトロポリス』や未来社会を背景にしたSF映画では、ロボット(機械)が人間から仕事を奪ってしまった世界がしばしば描かれる。そんな未来が確実に近づいていると感じさせる記事だ。

安い労働力を求めて海外に工場を置くことが今までの流れだった。だがその場合、技術の海外流失につながる懸念があり、進出国の政治動向によって企業活動が左右されるリスクも伴う。となれば一番安全で効率的なのは、国内の工場をすべて機械に任せて自動化することなのかもしれない。企業というものが利益と効率を追求する存在である以上、そういう流れが今後企業全体に拡大していくのはほぼ間違いないところだ。

東京新聞の記事では「無人化は、主に派遣労働者の契約打ち切りによる人員削減や正社員の工場内配置転換で対応し、転勤を伴う配置転換は極力抑制する」という記述がある。また、上記の毎日新聞の記事では「自動化設備開発のために、茨城県阿見町にある生産技術研究所を川崎市に移転し、現在約400人の研究者を1000人規模に拡充する」とある。

この記事は、高度な能力を持つ人材とそうでない人材の格差というものを考えさせられる記事でもある。ここで既存メディアの多くはおそらく”企業から見捨てられないような人材になろう”みたいなまとめ方をするのだろう。生き残ろうとする人間のもつ力を信頼する態度も大切なことだ。だが…、それだけで本当にいいのか? 

富裕層、貧困層、ロボットがそれぞれの居住区に住み、対立しあう『メトロポリス』の未来は止められないのか? それとも、すでにそういう世界になっている?

投稿者 オッズ : 19:45 | コメント (0) | トラックバック | column

フローラルスタッフ2

前回のつづき。

受信料の法的な位置づけよくわからないのだが、どうやらNHKの立場はご協力いただくというスタンスのようだ。だが、個人主義が蔓延して、公共なんて糞くらえ、払わんでもすむのならわたしゃ死んでも払わんよというケチな御仁が世間にあふれるこのご時世。人心の退廃、ここにきわまれり、嘆かわしやとため息つくエビ様を筆頭とするNHKのお偉いさん方。

と、おとなしくNHKが引っ込むとは思えず、このままでは受信料の徴収思うにまかせず、まじめに払っている人から不公平じゃないかとなじられる、あの国民年金みたいなことにはなっては大変ということで対策の手を着々とうっているにちがいない。NHKは頭のいい人がいっぱいいるんだろうし。で、その対策は。

B-CASカードをご存知だろうか。BS/地上デジタル放送や110度CSデジタル放送の著作権保護のために導入されたカードだ。私は、NHKはこれを受信料徴収の切り札として考えていると思う。

現行のアナログ放送は、受信料を納めていてもいなくてもNHKのコンテンツは視聴することができる。これをデジタル放送では、受信料を支払わない人は視聴できないシステムに切り替えなければならない。そのためには、視聴者をそれぞれ認識するための証明書が必要になる。

BS/地上デジタルなどのデジタル放送を視聴するには、B-CASカードを受信機に挿入しなければいけない。カードは現在、デジタル放送を視聴する機器を買えば自動的についてくるが、こうしたシステムを普及させておけば、受信料を支払っていない人間をカードで認識して排除することは簡単なことと思われる。

こうして考えると、デジタル放送導入にNHKがなぜ異常とも思えるほど執心しているのかがわかる。そして、民間放送局がなぜ消極的な態度なのか。民間放送局にとっては設備投資がかさむだけで、目に見えるメリットはない。だが、NHKにとってデジタル放送は確実に受信料を得るという死活問題だ。目の色がちがって当然だ。

高画質、多彩な双方向サービスは単なるお題目に過ぎない。と言うのは言い過ぎかも。でも、デジタル放送の主目的は受信料不払い者の排除にあるというのは間違いない。

そういうわけで、受信料を各世帯をまわって払ってもらうという仕事は、デジタル放送が一般に普及するまでだと思われる。それまでの期間、不祥事という問題を抱えながら、NHKはなんとか受信料を集めていかなければならない。

投稿者 オッズ : 19:42 | コメント (0) | トラックバック | column

2004年11月20日

フローラルスタッフ

フローラルスタッフってなんだよ。NHKのホームページで今、募集中のお仕事。実はこれ、仕事内容は受信料の徴収。以前は「地域スタッフ」という名前がつけられていた。もっと以前は、また別の名前がつけられていたと記憶する。とにかく名前がよく代わるお仕事。でも、仕事内容の中心はあくまで受信料の徴収にある。

一応、確認のために意味を示すと、

floral:形容詞。意味は「花の~」など。
staff:名詞。意味は「職員」など。

直訳すると、「花の職員」か。いくらなんでも、名前と仕事内容がかけ離れすぎ。番組に飾る花を生けるわけでもあるまいに。

正確な数字としてはでていないが、NHKの不祥事を理由に受信料を払おうとしない人が急増していると推測される。大体、NHKの受信料支払いを認めている人はすでに銀行振込にしていると思われ、自宅まで徴収にうかがう必要がある人は、払わないという意思をもっている人が大半なのではないか。となれば、そんな人から支払いに協力するという態度をひきだすには、かなりの精神的なタフさが要求されると思う。花という華やかなイメージにはもっとも遠い位置にある仕事なのでは。

「受信料支払いの協力を求める」仕事にまつわる暗いイメージを避けて、人を集めるためにこのような名前をつけたのか。女性向きなイメージをアピールしているのだろうか。いずれにしろ、この名前はひどい。
カタカナ語に職業名には今でもある種のいかがわしさがある。人々の間に名前が定着すればそうでもなくなるが、依然として、仕事内容を隠すようにしてカタカナ語の職業名をつけるところもある。
でも、天下のNHKがそんな詐欺っぽいことでいいんですかと問いたい。受信料はNHKの収入にとって核となるものだ。そんな重要な部分を支える人たちを軽んじてはいないか。どんなに優れた番組も金がなくてはつくれないぞ。

もっと、仕事の内容にそくした名前にしたほうがいい。まだ、「地域スタッフ」のほうがましだ。

さらに、NHKの不祥事を理由に受信料を支払わない人にも違和感を感じる。それとこれとは話が別だと思うからだ。どんな事業もお金がなくてはできない。公共放送の意義やニーズというのは確実に存在する。そうした意義のある公共事業を、一人一人の努力によって支えていくというのもまた必要なことだと考える。

投稿者 オッズ : 19:36 | コメント (0) | トラックバック | column